70年代の福岡で音楽を継承する土壌が生まれたのはなぜか
──鮎川さん然り、先日亡くなった頭脳警察のPANTAさん然り、日本のロック黎明期から活躍していた重鎮ほど人当たりが良く、物腰が低く、決して偉ぶらないんですよね。
寺井:僕も鮎川さんのことを、めんたいロックという上下関係のトップにいる方だと思っていたんですけど、そうした体育会系的なこととは一番無縁の方だったんですよね。松本さんもそういう方で、年下でもフラットに接してくれました。
──松本さんが亡くなった後に鮎川さんとルーシーさんがジュークレコードを訪れるシーンがありますが、監督にとっても思い入れのある場所だったわけですね。
寺井:足繁く通っていたので、僕自身、いろいろと感慨深いものがありました。松本さんが亡くなってジュークレコードが急遽閉店することになり、閉店する前に松本さんのことを鮎川さんに語ってほしいとオファーしたんです。それで二つ返事で快諾してくださったんですけど、当時は余命宣告を受けてすでに数カ月経っていたんですよね。それなのにすぐ飛んできて、親友のことを嬉しそうに語ってくださって……。自分があとどれくらい生きられるかわからないという時期にそんなことをするなんて、自分にはまずできないと思います。
──しかもそのジュークレコードの撮影シーンで三姉妹の名前の由来が明かされるというのが、ロックの女神と言うのか映画の神様と言うのか、ちょっとした奇跡みたいなものを感じずにはいられないんですよね。
寺井:自分でもいい場所で話を聞けたなと思います。レコード棚やレジなど店内のいろんな所を撮影していたら、鮎川さんとルーシーさんが雑談しているような雰囲気だったんですよ。そこで鮎川さんに聞いてみたんです。「ルーシーさんってどんな娘さんですか?」って。そしたら「知慧ちゃんは賢い」って言い出して。賢い=“慧”という字が名前に入っていて、そんな話から三姉妹の名前に込めた思いを聞くことができたんです。それで最後に「“誠”という名前はご自身に何か影響を与えましたか?」と鮎川さんに聞いたら、「“誠”はいい加減の象徴」なんて答えてくださって(笑)。ああいう自分の話題になった途端に話をサゲる感じ、照れて逃げるみたいな感じがいかにも鮎川さんらしいですね。
──純子さんの娘・唯子さんを溺愛する鮎川さんの祖父としての姿を収めたシーンも貴重ですね。唯子さんの存在自体が希望の象徴であり、祖父と孫の触れ合いは命のバトンがしっかりと受け継がれている象徴のようにも感じますし。
寺井:お客さんには見えない姿、たとえば開演前の楽屋での鮎川さんの姿なども撮ったほうがいいなと、取材の過程で思ったんです。おそらく家族の話になるだろうと漠然と感じていたので、楽屋での知慧子さんや純子さんとのやり取りを撮ってみたりとか。ただし「こういう話にしよう」と決めつけて撮るのは違うし、自分の思い描く画に現実を当て嵌めていくことはしないように意識しました。
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──本作は福岡のロック文化の揺籃期を今日に伝える側面もあると思うんです。たとえばジュークレコードの松本さんも主要メンバーの一人だったロック喫茶・ぱわぁはうすで、サンハウスのメンバーが中心となって『ブルースにとりつかれて』というブルースのレコード・パーティーが月一回のペースで開催されていたことが本作でも紹介されていますが、そうした音楽文化の継承が福岡のロック・カルチャーの形成に果たした功績は非常に大きいですよね。『ブルースにとりつかれて』のような進歩的な試みが成立する土壌だったからからこそ、サンハウス以降にシーナ&ロケッツ、モッズ、ルースターズ、ロッカーズ、アクシデンツといったルーツ音楽を分母に置いたバンドが次々と出てきたわけですし。そうやって音楽の伝承的地層が連なっていくのは同時代の都道府県で福岡以外に見当たりませんし、福岡という局地的なエリアで音楽の文化継承が当たり前のように行なわれていたのはなぜだと思いますか。
寺井:そうした福岡独自の音楽的土壌自体を、鮎川さんなり柴山(俊之)さんなりが作り上げていったということでしょうね。『ブルースにとりつかれて』はロックのルーツとしてのブルースを学ぶ催しで、つまり音楽を歴史として捉えたわけですよね。ロックなりブルースなり、あらゆる音楽はそれまでの歴史の連なりの末に生まれたものだという考えが鮎川さんたちの世代にはあったんでしょうし、その考え方がなぜ福岡という土壌に染みついたのかは未だ謎ですけど、一つには『ブルースにとりつかれて』のようなイベントを大学生が主催したことが大きかったんじゃないでしょうか。鮎川さんは九州大学、柴山さんは福岡大学をそれぞれ出ているし、ティーンじゃない知的好奇心旺盛な学生たちが新たなカルチャーとしてブルースを受容したことがポイントとして大きかったと思います。感覚的にただ楽しい、面白いだけではなく、体系的にそれを学んでみようという大学生特有の発想があったんじゃないですかね。その試みをイベントとして実施することで、若い世代が同時に何十人も体験したからこそ、音楽を歴史の蓄積として捉える行為が土地柄として染みついていったのではないかと僕は思います。さっき松本さんの遺品の中にサンハウスのライブ音源が見つかった話をしましたけど、山善(山部善次郎)さんがやっていた田舎者のライブ・テープも見つかったんですよ。その音源の中で、キンクスの「I Need You」をカバーしていたんです。70年代初頭の日本でそんな曲をやるなんて、他の地域じゃ考えられませんよね。鮎川さんも同時代の洋楽を強く意識していたし、演奏するのは小さなロック喫茶だったんだろうけど、そこでは「ストーンズは3枚目まで聴いとかなきゃ絶対ダメよね」とか「キンクスは××を聴かな話にならん」みたいな共通認識がはっきりあったんだと思います。それが下の世代に受け継がれてバンドを始めて、そのバンドを観たさらに下の世代へロックの共通認識が受け継がれる…というのがめんたいロック隆盛までの流れですね。ルースターズやロッカーズの面々は、サンハウスやシーナ&ロケッツが音楽を歴史として捉えてバンドをやっていたのを生で観ていた人たちじゃないですか。特にルースターズがなぜサンハウス直系なのかと言えば、この映画の中で大江(慎也)さんや花田(裕之)さんが証言していますが、鮎川さんがシーナさんの実家があった北九州市の若松に住んでいた頃に直接交流があったからなんです。デビュー前の大江さんや花田さんにとって、鮎川さんとの音楽的交流から得たものはとても大きかったでしょうね。