ロフトはロックの聖地で憧れのライブハウスだった
──最初はニューロティカの圧勝だったのかもしれませんが、その後のジュンスカの大ブレイクはご承知の通りで、1988年5月にトイズファクトリーからメジャー・デビュー。
アツシ:そう、メジャー・デビューは僕らより全然早かった(ニューロティカは1990年6月に日本コロムビアからメジャー・デビュー)。
純太:結果的にはそうだけど、最初に観たニューロティカのライブが凄い良かったんですよ。想像以上に素晴らしくて。あっちゃんはピエロの格好で出るのかなと思ったら、マイケル・ジャクソンの格好で脚立に上がって唄ってて。唄いながら脚立から落ちたんですけど(笑)。あれは度肝を抜かれましたね。
アツシ:よく覚えないけど、ピエロに固定する前かな。当時はバットマンとかいろんな格好をしていたから。まああれだね、脚立から穴に落っこちちゃったんだね(笑)。
──仲良くなったのはいつ頃からですか。
純太:覚えてる?
アツシ:大東文化大学の学園祭(1988年11月3日)で共演したあとかな。ウチらのロフトのライブにジュンスカのみんなが観に来てくれたんだよね。飛び入りでコーラスをやってくれてさ。そのときのジュンスカは破竹の快進撃を続けていた頃で、売れてるバンドがロフトへ来て賑やかしをしてくれたのが凄く嬉しかったのを覚えてる。なんだ、あっちじゃなくてこっちの人間だったのか! と思ってね。
──純太さんはその飛び入りを覚えていますか。
純太:覚えてます。マイクを個別にもらって、「DRINKIN' BOYS」でコーラスをやらせてもらいました。
アツシ:あ、思い出した! ロフトで3デイズやって、いろんな人たちが来てくれたときだ(1988年12月6日〜8日、『新宿ロフト・1000人斬り!』)。
純太:その頃は一度イベントに出てもらったからなのか、俺は勝手に親近感を持っていたけどね。直接連絡を取り合う仲ではなかったけど、親近感があったからこそ気軽にロフトへ立ち寄ったんだと思います。
──ジュンスカはラママのイメージがありますけど、ブレイク前夜の1987年には新宿ロフトにも出演していただいていますね。資料によると、1987年4月7日に『爆走ロック・ドライヴィンクレイジー』というイベントでTHE MACHINE-GUN、JOHNNY & TROUBLE MAKER(ex-ハートビーツ)と共演しています。
純太:THE MACHINE-GUNはWOLFさんがANTIの後にやってたバンドですね。その頃からロフトにやっと出られるようになって、その1年後…1988年5月19日にロフトで初めてワンマンをやれたんです。アマチュア時代からずっとロフトはロックの聖地で憧れのライブハウスだったし、早く出たかったけど敷居が凄く高かった。1987年より前、昼の部に出たことはあったけど、なかなか出れる機会がなかったんです。一方、1982年にオープンしたラママはまだカラーのないライブハウスだったので比較的出やすかったんです。
──ニューロティカとジュンスカ、バンド同士の交流もあったんですよね?
アツシ:ウチの打ち上げでよく一緒に飲んだよね。
純太:ニューロティカがロフトでやって、俺たちが別の場所でライブをやった後にロフトに合流して飲んだり。
──ロフトでの打ち上げといえば以前、石橋凌さんがまだ高校生だった宮田和弥さんのことをよく覚えていると話していました。ARBのライブが終わっても和弥さんがフロアにずっといて、凌さんに近づいて「マイクの持ち方が悪い」と言ってくるうるさい子どもだったとか(笑)。それとニューロティカの打ち上げで、KEITHさんと和弥さんが裸になってステージに上がり、KEITHさんの頭上に和弥さんが……(以下、自粛)。和弥さん、よく殺されなかったなと思いますが(笑)。
純太:そんなことあったんだ?(笑)
アツシ:それがロフトだから(笑)。
──親交は深めつつもライバル視していた部分もありましたか。
純太:どうかな。俺はただニューロティカのことが好きで、ファンだったから。ニューロティカのTシャツを着てステージに出たりもしたし。それもごく自然な形で、気がつけば着てたって感じで。
アツシ:原宿のホコ天で純太のブロマイドが売ってて、ニューロティカのTシャツを着てたのをウチのファンが買ってきてくれたことがあったね。純太はいつもふらっとニューロティカのライブを観にきてくれるの。それが凄い嬉しかった。イーストとかロフトとか、節目のライブに必ず来てくれたから。
純太:野音も行ったしね。ホントに好きだから。
バンドを長く続ける秘訣とは?
──純太さんから見たニューロティカの魅力というのは?
純太:やっぱり楽曲の良さですね。みんなで唄えるのがいいし、ビート感も心地良い。それに尽きます。あっちゃんのキャラクターもMCも面白くて好きだけど、俺は楽曲そのものが大好きです。
アツシ:ありがとうございます! 嬉しいですね。
── 一緒に唄えて踊れる曲の親しみやすさというのは、ニューロティカとジュンスカの共通点のように思えますね。
純太:そうかもしれませんね。
アツシ:あとジュンスカで覚えてるのは『ロックンロールオリンピック』(1981年から1994年まで宮城県のスポーツランドSUGOで毎年夏に開催されていた野外ロックフェス)。あそこではまーちゃん(小林雅之)と(寺岡)呼人がウチのライブによく乱入してくれた。俺がステージの右側で唄っても、左側にいるまーちゃんと呼人のほうがお客さんのリアクションが大きいっていう(笑)。でも飛ぶ鳥を落とす勢いのバンドが乱入して盛り上げてくれるのは純粋に嬉しかったし、当時はそうやって人のライブではしゃぐのが流行ってたんだよね。
──その『ロックンロールオリンピック』をジュンスカ目当てで観ていたRYOさんが後年ニューロティカに加入するのだから、人生何が起きるかわかりませんね。
アツシ:そうそう。「ジュンスカを観に行ったらピエロがいた」って言ってた(笑)。
純太:でもそういう縁ってステキだよね。
──お二人が同席した場面で起きた、今では考えられないバンドブームを象徴するような出来事があるとすればどんなことですか。
アツシ:それもやっぱりロフトでの打ち上げじゃないかな。ライブが終わって機材を片付けて打ち上げが始まるんだけど、上で麻雀やったりナンパしたりする奴がいたり、最終的に機材を戻してまた演奏してみたり、あの頃のロフトはまさにカオスでした。その打ち上げに一番来てくれたのがジュンスカだったね。
純太:ああ、そうかな? 打ち上げでみんなで楽しく飲んでいたのに、気がつくとライブが始まってるんだよね。しかも見ず知らずの関係者たちで。誰かがカラオケを唄いたいとか言い出すと、みんな酔っ払ってるから「じゃあ俺が弾くよ!」「俺もやる!」なんてことになってさ(笑)。
──あっちゃんと純太さんはその後も『俺達の時代』(2003年7月12日)や『夏だ!ビ-ルだ!ニュ-ロティカ』(2003年8月14日)、メロン記念日の『LOFT LAST GIGS』(2010年4月11日)でもロフトで共演しているし、バンドブームの頃からずっと交流が続いているのも珍しいケースなのでは?
アツシ:タイミングじゃないかな。意識して交流を続けてきたわけじゃないもんね?
純太:うん、そうだね。
アツシ:でも近頃は意識して会うようにしてるよね? お互いに寂しがり屋だから(笑)。
──あっちゃんはジュンスカが2007年に再始動したときはやはり嬉しかったですか。
アツシ:凄い嬉しかったですね。同世代で同じバンドを続ける人たちも年々少なくなる一方なので。でもあまり「おかえりなさい」って感じでもなかったかな。メンバーそれぞれ音楽を続けてたし、純太ともまーちゃんとも和弥ともライブを一緒にやっていたので。ジュンスカが終わった感覚があまりなくて、巡り巡って2008年にまた対バンできたって感じです。
──純太さんはニューロティカの屋号を40年近く守り続けるあっちゃんのことをどう思いますか。
純太:自分に置き換えて考えたこともあったけど、俺はあっちゃんのようには到底できませんね。バンドを続けること自体、凄い精神力が必要だし、集まってくるメンバーが絶えずいるというのはあっちゃんの人間力というか底知れぬ魅力があるからだろうし。ここまでニューロティカが続いているのは純粋に素晴らしいことだと思う。
──バンドを長く続ける秘訣みたいなものはありますか。
純太:俺は酒をやめて6年経つんですけど、それは長くステージに立ちたいと思ったからなんです。特に体調が悪いわけでもなかったんだけど、飲んだ翌日が辛いことが多かったので。酒をやめるとそういうことがないし、ライブを純粋に楽しめるので心身共にいいんです。
アツシ:僕は極真の大山倍達総裁の教えで、拳一杯のお酢を毎朝飲んでます。効果は特にありませんけど(笑)。自然が一番だし、身体に良いことは何一つしてません。