1987年に結成し、ザラついたハードなサウンドと独自のポップ・センスを盛り込んだパンク・ロックで、当時のパンク・シーンにおいて確固たる存在感を示したザ・マグネッツ。しかしながら1993年のアルバム・リリース後には、静かに姿を消してしまったバンドである。そのマグネッツが数十年の沈黙を破り復活となった。ボーカルであり、ギターの田中と共にマグネッツを立ち上げた星川に、マグネッツの足取りと復活までの流れを聞いてみた。[interview:塚本利満 / 写真:TAMA、辻 砂織(LIVE 89)]
自主制作でソノシートを出してから人気がうなぎ昇りに
──マグネッツの前は何かバンドはやってたんですか?
星川:高校の頃からバンドはやってたんで、高校1年ぐらいかな。
──パンク・バンド?
星川:もちろんパンク・バンド。パンクじゃないバンドはやったことがないですね。最初はクラッシュとか亜無亜危異とかそのへんのコピー・バンドで。ありきたりな感じで始めましたね、最初からボーカルで。そのときはボーカル・ギターで。オリジナルもちょこちょこやってはいましたね。高校の頃はバンドを2つか3つやってました。
──そんなに?
星川:学祭とかでやると先輩のバンドとかに引っ張られたりして、オマエちょっとサイド・ギターやってくれよとかって。で、そっちのバンドと自分のバンドとかをやって。
──そのときは、バンドでずっとやっていこうっていう思いは?
星川:そこまでは考えてなかったですね。
──でも継続的にバンドはやってた?
星川:そうですね。高校が仙台だったんですよ。で、やっぱり上京しないとだなって思ってて上京して。それで、当時『ドール』とかのバンド募集とかもあって、募集して作っては解散してってのを繰り返して。
ザ・マグネッツ(1989)撮影:辻 砂織
──上京したのは何年? マグネッツを結成したのが87年だよね。
星川:そう、だからその3、4年前かな。で、ギターの田中くんとかと出会ったのが、そのときは自分が募集したんじゃなくて、向こうからボーカルを募集してたのを見て。それに飛び込んだのが始まり。だけど、1回目のリハでは、そこのバンドとはノリが合わなくて。その後、マグネッツの前身となるバンドを作ったときに、田中くんから連絡が来て、それで組むことになって。
──それが母体となって、星川くんと田中くんでマグネッツを結成することに?
星川:そうですね、そこで二人でマグネッツっていう名前も決めて。それで、1回目のライブが87年の10月くらいだったかな、新宿のジャムで。最初の頃のライブはジャムが多かったですね。渋谷の屋根裏もいつか出たいなと思ってたら無くなっちゃって(笑)、下北に移ってからは出たんですけど。その翌年の3月か4月なんだけど、渋谷のライブインってとこでイベントがあって、それに出たんだけど、そのときの対バンが面白かったですね。ジムノペディアとかとスピッツも出てて(笑)、あといくつか出てたんですけど。
──時代ですね(笑)。田中くんとマグネッツを始めたときに、どんなバンドにしようってのは何かありました?
星川:特別にこういう方向で行こうって話はなかったと思う。最初に出会ったときのバンドはラモーンズ的なバンドだったんですよ。最初からオリジナル曲をやってたんだけど、10曲あったら、その後もやってる曲は、1、2曲だけだから、ボツ曲が多かったですよね。曲はだいたい僕が作っているんですけど、田中くんはそれに耐えてくれましたね(笑)。
撮影:TAMA
──それでソノシートを出したのは。
星川:1stの『NEEDLES』を出したのが88年かな。池袋のスタジオで3曲録ったんだけど、その内の2曲でリリースして。それがけっこう評判良くて、そっからですかね。
──それ出す以前はどんな感じだった? ある程度ファンがいたりしたんですか?
星川:いやー、ほんの少しはいたけど、やっぱ出してからですね。それで徐々に客がついてイベントとかにもどんどん出て人気も上がっていった感じです。それで2枚目の『PLUNK BOY』は、当時ビリー・ザ・キャップスとかジムノペディアとか、ジャンル関係なくいろんなバンドをリリースしてるとこの関連会社から話が来て。でもレコーディング中に社長が失踪しちゃって(笑)。だからごちゃごちゃした中で出しましたね(笑)。