忌野清志郎はフジロックの精神的支柱
──2002年はジプシーズやJUDE以外にも、苗場食堂にあった小さなスペースで忌野清志郎さんと共演するという重要な場面もあったんですよね。のちの“苗場音楽突撃隊”につながる雛型がそこで出来つつあったという。
池畑:そうそう。みんなで苗場食堂で飲んでいたら、日高さんが「清志郎くん、ここで何かやらないか?」と急に言い出して。その場に俺もいるってことで、「お前も何かやれ」とジャンベを持ってきて。そこでも日高さんに「やるのか? やらないのか?」と言われて「やります!」と(笑)。
──即興で何を演奏したんですか。
池畑:トロージャンズのギャズ・メイオールもいて、一緒に「りんご追分」をやったのは覚えているんだけど、あとの記憶がさっぱりでね。あと、(仲野)茂もそこに遊びに来ていて、何か一緒にやった気がする。とにかく凄い数の人が集まってきて、異様な光景だったのは覚えてるけど。
──去年(2021年)の『忌野清志郎 Rock’n’Roll FOREVER with ROUTE 17 Rock’n’Roll ORCHESTRA』は実に素晴らしいセッションでしたが、池畑さんにとって清志郎さんは7歳上の先輩で、上京したてのルースターズにとっては同時代で活躍するRCサクセションをライバル視していたところもあったのでは?
池畑:そう、ライバルだった。きっと花田(裕之)のほうが先に知り合って仲良くしていたと思うけど、俺が清志郎さんと飲んで言葉を交わすようになったのはだいぶ後…日高さんに紹介してもらってからだね。行った店にたまたま清志郎さんがいたりして。BOØWYにいた松井(常松)くんと彼のソロ・アルバム『SONG OF JOY』を作っていた頃、松井くんと一緒に行った店に清志郎さんと日高さんがいたんだよ。そこで一緒に飲んだのが清志郎さんとの初対面。
──『SONG OF JOY』ということは1991年頃ですね。2002年に苗場食堂で共演した頃は近しい関係だったんですか。
池畑:凄く近いわけではなかったけど、一応の面識はあった感じ。清志郎さんとはずっとそんな感じだったよ。たとえば誰かの葬儀ですれ違うときも軽く会釈するだけだったし。
──東京で一旗揚げようと血気盛んだった22歳頃の池畑さんは、当時の清志郎さんをどう見ていたんですか。
池畑:俺が中学の頃からラジオで聴いてた人だし、RCのフォーク時代ももちろん知ってた。それがあるときからロックに転向して、「エッ、それはちょっと違うんじゃないの?!」と思ったね。それをやられたらきっといい方向に行ってしまうから困るな、という意味でね。ある種、ボブ・ディランがアコギをエレキに持ち替えたときの衝撃に似たものがあったというか。案の定、泉谷(しげる)さん、RC、シーナ&ロケッツが連なって日本のロックの流れを変えていったよね。
▲2014年の“ROUTE 17”
Ⓒ Yasuyuki Kasagi
──去年の『忌野清志郎 Rock’n’Roll FOREVER』を見て、死後12年を経てもなお清志郎さんがフジロックの精神的支柱であり続けているのを実感したのですが、池畑さんはどう感じましたか。
池畑:俺もそう思った。日高さんと清志郎さんのつながりの深さも聞いていたし、清志郎さんが亡くなった後も苗場で清志郎さんが日高さんのそばにいる感じもあったし、日高さんが大切に思っていた人は俺にとっても大切な存在っていうのかな。ずっとライバル視していたけど、だんだんそんなふうに変わっていった。実際、亡くなったときも不思議なことが起こってね。
──不思議なこととは?
池畑:いま思えばあれは2009年の5月2日、俺はボードウォークの作業で苗場へ行く予定だった。でもちょっと用事が立て込んでしまって、これから出かけるには遅い時間になっちゃってね。それで苗場へ行くのは明日にするかと思いながら片付けをしていたらラジカセが出てきて、それがポンと落ちてきた瞬間にスイッチが入って、「忌野清志郎さんが亡くなりました」ってニュースがラジオが流れてきて。ああ、これはすぐに行かなくちゃと思って苗場へ出かける準備をしたよ。
──ロックの神様からのお知らせだったのかもしれませんね。
池畑:そういう不思議な体験は他にもあって、浅川マキさんが亡くなったときもそうだった。CDの棚を整理していたら、たまたま1枚だけポンと落ちてきたのがマキさんのCDでさ。まさか何かあったわけじゃないよな? と思ったら、マキさんが名古屋に滞在中亡くなったことを知って。愕然としたね。
──マキさんにも“ROUTE 17”の一員として唄って欲しかったですね。
池畑:それは自分の中でもずっと考えていたことでね。いつかフジロックでマキさんと同じステージに立ちたいと願っていたし、実現したら凄いことになっていたと思う。