生涯作曲数は1,000曲超!「次々と狙っていくのみ」
——未発表曲も含め、これまでゆうに1,000曲以上は歌をつくられたとか。友川さんはいつも「枯木の山」と自嘲なさいますけど…。
友川:ホント、他人に言われると腹立つ(笑)。だけど、その通りなんですよ。だってもう50年ですよ。ヒット曲ゼロのまま、低空飛行を続けて半世紀。未だにこうやって叫んでるわけですから。昔、作家の立松和平さんも呑みながら言ってましたよ。「トモカワ、俺にも陽の目を見てない原稿が山ほどあるんだよ」って。未発表原稿がダンボール何箱分もあると。だからまぁ、そんなもんなんだろうな、とも思う。お笑い芸人だってそうだろうし。
——作品が他者の目に触れる機会なり場があること自体、既にして幸運なのかもしれませんね。
友川:そう。ひとつ形になって、初めて次に行ける。今回の映画にしたって、公開されることでちょっとした「賑わい」があるわけだから。ライブにせよ、メディア露出にせよ、多少は増えるわけですしね。監督もこれで気兼ねなく次の作品に向かえるだろうし。私の職業って、「賑わい」がなくなったらオシマイ。棚からぼたもちならまだしも、天井から金ダライが落ちてきたら終わりなんだから。
——つねづね、「ユメなんかほとんど叶わない。だけど、次々と狙っていくのみ」とも仰ってますが。
友川:そうなのよ。しつこーく頑張ってれば、ごくごく稀にでも、いいことあるような気がするの。狙ってない人にはそれすらない。地団駄は踏むためにあるんだから。それは何も表現活動だけじゃなく、人生全般についても言えると思うんですよね。狙い続けてると、たまーに的を射抜くのよ。
——友川さんの場合、「狙う」という意味では、やはり競輪の占めるウェートが突出していますよね。
友川:私には競輪から教わったことが山ほどある。本や映画からも教わったけど、競輪が一番。競輪ってやっぱりドラマなのよ。レースにもよるけど、「そう来たか!」「そこまでは考えが追いつかないよ…」という展開が往々にしてある。日常生活でもそういう「読みきれない」ってことがままあるでしょう。人生ってかなりの部分ドラマチックであるはずなの。だから、競輪を真剣にやってると、生きていく上でのヒントっぽいことが拾えたりもするんです。
——映画の中でも、「(競輪を)チェックはしてる」と言った長男に対して、「(車券を)買わないと、やってないのと同じだから」と小言を言うシーンがありました。
友川:たった100円でもいいからリスクを背負わないと、何も得るものがないということです。リスクは背負うためにある。ライブだって、タダで観るのと入場料払って観るのとじゃ、全然違うと思うの。私はいつも「聴く側、観る側も表現者だ。対等なんだ」って言ってるけど、それも時間とかお金とか、何らかのリスクを背負って初めて成立する話であって。
——今の世の中、どこを向いてもリスクヘッジに偏重しているようにも感じます。
友川:「高嶺の花」っていうけど、まず花が咲いてる断崖絶壁まで自力で行こうとするかどうかが問題。他人の人生はよくわからないけど、ちょっとした楽しみに辿り着くにも相当キツイ想いをしないといけない場合ってあるじゃん。でも諦めさえしなければ、いつか辿り着いてるもんなの。人生キツけりゃキツイほど、小さいことに凄い喜び感じるのよ。「今日は漬物が上手に漬かったな」とかさ。「貧乏人の寂しさは味わい尽くしたから、そろそろ金持ちの寂しさを知りたい」ってよくギャグで言ってますけど、金持ちが常に楽しいのかって言えば、多分そうじゃない。それじゃ想像力がなさ過ぎるもの。
——ですから、さっきの息子さんへの小言にしても、単なる「親子の会話」じゃないんですよね。他愛ない一言に実は物凄いヒントが隠れていたりして。
友川:あんまり真に受けられても困るけどね。ただ、あの会話は本音ですよ。「あ、金賭けてないんだ、損しなくて良かったね」なんて、口が裂けても言えない。「金ないなら泥棒せぇ!」とも言えないけど、リスク背負わなきゃ。
——友川さんのひたすら「穴狙い」、ローリスク・ハイリターンの車券術の一端も競輪場での映像や周囲の証言から垣間見れます。
友川:「本命買いは死ぬ」という格言があるんですよ。競輪の場合は、1日レースを見ていても、本命筋で決まるのはほんの一部。だから私のような貧乏人にも一瞬ボワッと爆発するチャンスがいっぱいあるの。それも単なる当てずっぽうじゃなくて、大穴狙うにも根拠が必要なんだけど、穴っていうのは「日常をちょっとズラしたところ」にあるんです。
「目にモノ見せなきゃライブじゃない」
——あるいはその辺りの認識は表現活動にも通底するところなのでは?
友川:日常があるから、非日常があるわけですよね。八木重吉の言葉にこんなのがあって。草っ原に座りながら、「見えるものは他人のもの、見えないものこそが俺たちのものなんだよ」って子どもに語りかけるの。私の歌の歌詞にも、「見えるものからしか見えないものは語れない」(「エリセの目」)とか、「目をつむらないと見えないものがある」(「馬喰が来た朝」)っていうのがあるけど、自分の中にはそういう感覚がずっとある。
——友川さんの魅力の根っこには、生活者としての「俗」っぽさと、表現者としての「異形」感、それらの振れ幅のデカさがあると思うのですが。
友川:私は俗人そのもの。一人でメシ作ったり漬物を漬けたりするだけで楽しいんです。まぼろしの基盤は現実。虚構で強烈な突風を吹かせるには、強烈な現実が必要だったりするの。頭にくることが一個あるとステージがうまくいく、というのもそういうことで。だからと言って、別に歌のために競輪で負けたりはしませんけどね。テンションを作るには「怒り」が一番手っ取り早い。政治だって酷いわけじゃん、ずーっと。モリカケ疑惑しかり、閣僚のカネの問題しかり。桜を見る会のアレにしたって、噴飯の極みでしょう。どれもこれも、すぐさま政権が吹っ飛んでもおかしくない話ですよ。なのに支持率は大して落ちてない。一体何なの? 何でみんなもっと本気で怒らないの? 私には皆目わからない。
——そういう生々しい怒りが常にあるからこそ、熱量に満ちたパフォーマンスが可能なんでしょうね。古希を迎えた今も。
友川:だって、もうとっくに潰しは効かないんだし。年齢で括れるようなマトモな人生送ってないから。いろいろと病気したりもしたけど、幸い基礎体力だけはあるんですよ。そうそう、最近こんな歌詞の歌つくったの。「70歳がどうした!?」「出てこい! という会社もない」っていうね。タイトルはズバリ、「2019立川グランプリ」(笑)。
——創作意欲も衰え知らずで。
友川:今回の映画も何気に反響あるし、もうひとつふたつ、ふざけてみようかと思って。新曲つくると古い曲も生き返る感じがあるんですよ。新鮮な気持ちでまっすぐ唄えるようになるの。変にこねくり回さずに。歌謡曲の歌手とか、往年のヒット曲をやたら崩して唄ったりするじゃないですか。あれって歌に飽きてる証拠だから。私のような職業は、常に新しいこと考えてないとね。水も人間も、動いてないと淀むし濁るから。
——もうひとつの魅力の源泉である「声」も健在です。
友川:ヴィンセント・ムーンの映画(『花々の過失』)でも喋ってるけど、ずーっと唾を吐いてる感覚。今さらツルンとした歌を唄っても、お客さんも私もツマラナイでしょうし。人前で唄う以上、目にモノ見せないと。
——4月の大阪公演ではLoft PlusOne West初登場となりますが、意気込みは?
友川:ロフトは毎年年末に阿佐ヶ谷(LOFT A)に呼んでもらってまして。主催の大場亮さん(オルタナプロジェクト)が毎回満員にしてくれて。大阪もいっぱい入ってくれたら有難いですね。お客さんがいっぱい入ってくれると、唄うテンションが自然とできるんです。わざわざ無理して大酒呑んだり、頭にくることを想像しなくとも。他力本願かもしれないけど、場の空気感って、「多くの他者」が作るものなんですよ。
——以前は「関西はキライだ」とも仰ってましたが、最近はそうでもないようで。
友川:いや、今はむしろ好き。食い物が美味いから。何と言っても、かすうどんですね。あと、牛すじうどんとか。ダシがね、うまくて。あのスタンドで湯気が立ってる風景を見ただけでワクワクしちゃって。安いし。200円くらいで至福を味わえるんだから。「安くてうまい」ものこそ文化。関西はそういう食材がいっぱいあるでしょう? 今回は初めてのライブハウスだからまだわからないけど、周りに良い呑み屋や食い物屋があれば何より嬉しいですね。ライブをバチッと決めて、うどんもキチンといただいて。行く前より元気になって帰ってこようと思ってます。
——熱々のうどん食べて、「どこへ出しても恥かしくない」滾るパフォーマンスをぜひ。
友川:もちろん気合い入れてますよ。やりたい新曲も何曲かあるし、大阪には熱狂的なファンもいるしね。と言っても、3〜4人だけど(笑)。わざわざ東京まで定期的にライブを観に来てくれたりしてさ。そういう「動いてる人」のエネルギーって、こちらにとっては物凄いモチベーション源になるんですね。ちょっと下手なコトはできないぞ、っていう。だから、打ち上げで彼らと美味い酒を酌み交わせるようにね。思いっきり、やらせてもらいますよ。
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