埋立地や高層ビル街が異次元への入口だった
──改めて「開発地区はいつでも夕暮れ」や「うめたて」を聴くと、ゼルダは東京という人工的で無機質な都市で生まれたバンドだったことを実感しますね。
サヨコ:メンバー全員、東京出身でしたからね。私は東銀座で生まれて、どこにいても人がいたり、そびえ立つ高層ビルが馴染みのある環境で育ったんです。それに、まだフジテレビの社屋が建つ前の、暴走族か釣り人かマニアックな人しか行かないようなお台場の埋立地を冒険に行くのが一人になれる空間として好きだったんです。目に見えない存在と出会えると言うか、この海の向こうには何があるんだろう? ここで何が起きてどう変わっていくんだろう? と時空を超えるような場所に思えたんですね。そういう埋立地や新宿の高層ビル街が私にとっては異次元への入口みたいなものでした。
──「誰も居ない『東京原野』」が〈透明な境界線〉だったと。
サヨコ:通っていた高校も埋立地にあったので、コンビナートの工場や巨大なミキサーとかが身近にあって、授業中にそれを見ながらよく詩を書いていました。当時は廃墟や広大な空き地とかにみんながチューニングしているような時代で、私も“ウメタテチスト”を自称していたんです(笑)。
──「うめたて」に出てくる「飯場・団地・工場」はわかるんですけど、「遠い島に住む赤いキリンの群れ」は何を指していたんですか。
サヨコ:港に積んであるコンテナがクレーンに釣り上げられて移動する様子が、私には赤いキリンの群れみたいに見えたんです。そういうのも含めて私にとってはすべてがファンタジーだったんですよね。埋立地に小人や精霊が舞い降りているように思えたし、高速道路で光を放ちながら走る車も私には魚たちの群れのように見えたし。ツアーの移動中はいつもその光景を窓に貼りついて見ていて、目を細めると車のライトが広がって見えて、別の生き物のように感じたんです。そこに精霊が宿っているように思えたし、そういう目に見えない存在にすごく興味があったんです。
──そうしたサヨコさんの特異な作家性がゼルダの楽曲を今も色褪せないものにしているように思えますね。単純なラブソングではなく、今の時代にも通じる心象風景や都市景観をテーマにしていたからこそ普遍性があると言うか。
サヨコ:考えていることが今とあまり変わらないのかもしれません。もちろんサウンドに負う部分も大きいと思います。ゼルダは初期衝動としてパンク・ロックという形で始まったバンドですが、パンクに留まることなくいろんな音楽的要素を採り入れていったことも大きいでしょうね。たとえば「Ash-Lah」はトルコ行進曲から着想を得たんですよ。『阿修羅のごとく』という向田邦子さんが脚本を手がけたテレビドラマが当時あって、そのオープニング・テーマがトルコの軍楽隊が演奏する行進曲(註:オスマン軍楽の「Ceddin Deden」)だったんです。あれを聴いてすごく格好いいなと思って、カセットに録ったフレーズをヨーコさんがアレンジしたんですよ。『阿修羅のごとく』から取ったから「Ash-Lah」なんです。
──ああ、そういうことだったんですか。
サヨコ:それに、あのドラマみたいに人の心に宿る怒りのエネルギーが人間関係や社会の中で及ぼす作用、阿修羅や不動明王のように燃え盛るほど強いエネルギーをイメージして歌詞を書いたんです。当時はラモーンズやクラッシュ、ジャム、ストラングラーズといった8ビートを追求する格好いいバンドがたくさんいましたけど、私たちはそれだけじゃ物足りなかったし、もっといろんな要素を入れるのが好きだったんですよね。そうなると、ちょっと風変わりだけどいろんなアイディアがミックスした曲が生まれてくるんです。
──詩の朗読を交えながら前衛的なステージを繰り広げていた時期を〈暗黒ゼルダ〉、〈野性のゼルダ〉と呼ばれたことがありましたが、ゼルダは初期の段階から見せる/魅せることに関しても非常に意識が高かったですね。
サヨコ:みんなで全身黒づくめの衣装を着て、顔を白塗りした時期もありましたね。私はルーシー・モード・モンゴメリの『赤毛のアン』が好きで、幼い頃から主人公のアン・シャーリーに憧れていたんです。孤児である彼女は老兄妹に引き取られてプリンスエドワード島に連れて来られるんですけど、想像力をはたらかせながら自然の花や樹々に名前をつけて友達になろうとするんです。目の前の美しい自然と人々に対して想像力を駆使して自分の世界を豊かにしていくアンの姿にすごく影響を受けて、それで私も三つ編みに帽子のスタイルを踏襲したんです。私の場合は〈黒毛のアン〉でしたけど(笑)。
ホームグラウンドだった新宿ロフトという空間
──ちなみに、サヨコさんは今回のような初期のライブ音源を個人的にお持ちではないんですか?
サヨコ:CDを出してから気がついたんですけど、初めてスタジオに入ったリハーサルの音源や1980年3月30日に新宿ロフトで自分が参加した初めてのライブの音源を持っていたんですよ。今さらだけど、それも出しておけば良かったなと思って(笑)。
──いつか陽の目を浴びる日が来ることを期待しております。ゼルダは1980年から84年の間に実に24回も新宿ロフトに出演していて(註:サヨコとアコの個人出演を含めると26回)、ゼルダにとってロフトはホームグラウンドだったことが窺えますね。
サヨコ:まさにホームグラウンドでしたね。私が入る前、ゼルダのロフト初ライブ(1980年1月3日)はフロアで観ていたと思います。その後に初代ボーカルとキーボードが抜けることになって、チホさんから「サヨコちゃん唄ってみない?」と電話がかかってきたんです。歌詞はほとんど英語で唄われていたんですけど、自分はそれと同じようにはできないなと思って、初めてのリハーサルで自分の書いたオリジナルの日本語を適当にのせて唄ったんですよ。メロデイも即興で作ったりして。メンバーも「それでいい」ということだったので、歌詞は自分の好きなように唄わせてもらうことになったんです。
──いきなり認められるなんてすごいですね。
サヨコ:おしゃれチェックは受けましたけどね(笑)。その後に何本かライブをやって、たしか5月か6月に歌舞伎町でオールナイトのイベントがあって、その頃にはもう正式メンバーになっていたと思います。
──1984年5月21日から26日まで6日連続でロフトで開催した『CALNAVAL DE ZELDA(まつり)』のことは覚えていますか。
サヨコ:覚えています。戸川純ちゃん、アースシェイカーのマーシーさん、ムーンライダーズの鈴木慶一さん、白井良明さんなどを連日ゲストでお迎えしたイベントですね。一番最後の日は東大の学祭だったんですよ。1週間唄い続けたので、東大ではもう声が出なくなっちゃったんだけど無理やりやりました(笑)。
──ロフトには本当によく出演してくださっていたんですね。
サヨコ:自分がステージに立つ前からロフトには東京ロッカーズのライブを観に通っていました。当時、シンコーミュージックから『JAM』という雑誌が出ていて、そこで東京ロッカーズの存在を知ったんです。記事を読むと、大人たちが日本語でパンク・ロックを唄っていると。彼らがいったいどんな日本語詞を唄っているのかを見届けたくて、14歳の時に同級生を誘って初めてロフトに足を踏み入れたんです。s-kenさん、フリクション、ミスター・カイト、ミラーズ、リザードといったバンドが出ていたライブですね。たしか2回くらい観に行って、その2回目の時かな。豹柄の古着を着て、目の周りを真っ黒にメイクしたパンキッシュで素敵な女性が、開場待ちをしている人たちに「ミニコミいかがですか?」と話しかけていたんです。それが『change2000』というミニコミを作っていたチホさんだったんですよ。
──運命的な出会いですね。サヨコさんはゼルダ加入前にバンドをやろうと思わなかったんですか。
サヨコ:高校生くらいの男子とライブの場で出会って「バンドをやろうか?」と話をしたり、『ZOO』という雑誌にメンバー募集を載せたりしたんですけど上手くいかなくて、『change2000』に女性バンドのメンバー募集があったので、ありったけの小銭を持って近所の公衆電話からチホさんに電話をかけたんです。その時は「歳が若すぎるからメンバーとしては難しい」と言われたんですけど、そこからチホさんとの交流が始まったんです。
──ということは、サヨコさんにとってはゼルダが初めてのバンド経験だったわけですか。
サヨコ:学園祭で同級生の男子と一緒にKISSのコピー・バンドをやったことはありましたけどね。1曲だけ、「Love Gun」を唄いました(笑)。その男子を誘ってロフトへ東京ロッカーズを観に行ったんですよ。当時の私はずっと詩を書き溜めていて、それを何らかの形で世に出したくて仕方なかったんです。だけどどうしていいのかわからなくて、手当たり次第に自分が表現できる場所を探していたんですよね。