それでもやめられない何かがブッチャーズにはあった
──上京して以降、初期のカセットに収録されていた札幌時代のレパートリーがライブで披露されることはほぼなかったですよね。
射守矢:あの頃の曲をやろうって考えは吉村には全くなかっただろうね。
小松:佐野さんの時代はボーカルが唄ってて、僕が入ってからは叫ぶようになったじゃないですか。それもあって、昔の曲を唄うのが恥ずかしかったんじゃないですかね。で、ずっと叫んでたのがまた唄いたくなって、4人のブッチャーズになってからその傾向が強まった気がする。
──1990年から91年にかけて札幌の盟友バンドが次々と上京していく中で、ブッチャーズは上京するのが一番遅かったんですよね?
射守矢:その中でも俺が一番遅かった(笑)。単純に段取りが面倒くさかっただけなんだけど。荷物をまとめたり、引っ越しするのがさ。
小松:僕は東京に出るのは全く抵抗がなかったし、むしろ早く出たいと思ってたんですよ。ただ射守矢さんが東京へ行くのを一番渋ってたから、吉村さんがシビレを切らして言ったことがあるんです。「もし射守矢が来なかったら、ウエケン(上田健司)さんが『やってもいいよ』って言ってるからそうするぞ」って(笑)。
射守矢:そんな話があったの?
小松:それ、前にも話しましたよ(笑)。
射守矢:出たくなかったわけじゃないんだよ。あの頃は札幌でライブをやっても動員が少なかったし、音楽に関して言うと札幌は東京の後追いの三番煎じみたいな感じでスピード感もなくて、もう待ってられなかったしね。
小松:札幌でやれることはやり尽くしたし、これ以上ここにいてもしょうがないって感覚がどのバンドにもありましたからね。
射守矢:俺個人としてはどこに住んでもバンドとしてやることは変わらないと思ってたし、東京に出てもっと開けた世界へ飛び込むんだって発想はあまりなかったね。札幌で働きながらバンドをやっていたように、東京もその延長線上でしかないと思ってた。
──なるほど。こうして札幌時代のライブ映像&音源集を俯瞰すると、結成からの5年間はやはりバンドの礎を築いた時期という認識ですか。
射守矢:今となればいろんな言い方ができるのかもしれないけど、当時はそんなに仰々しく構えてバンドをやってたつもりはなかった。経験値を積み重ねるつもりでバンドをやってたわけでもないしさ。
小松:留萌から札幌に出てきたのは自分にとって凄く劇的なことだったし、札幌にいた時期はとても印象深いんですけど、札幌から東京へ出ていく前後も凄く劇的だったんですよ。その後もブッチャーズはずっと転がり続けて劇的なことが多々起こったし、札幌時代はごく初期の劇的な2年間って感じですかね。
──あの日、もしリハーサル・スタジオで吉村さんと射守矢さんが待ち構えていなかったら…と考えたことはありますか。
小松:もちろんありますよ。もしブッチャーズに入ってなくても東京には出てきただろうなと思うし、入ってなかったらあのまま札幌にいたんじゃないかとも思うし、その辺は分かりませんけどね。
射守矢:ドラムは続けてた?
小松:ここまで続けてたかどうかは分からないですね。射守矢さんは?
射守矢:今も昔もバンドをする、しないってことで悩むポイントがないんだよ。バンドをするのが当たり前だったからね。特に札幌時代、吉村とバンドをすることは考える余地もなく「これはやっていくものなんだ」って感じだったし、当時はそれすらも考えたことがなかった。取り立てて決意してやるようなことじゃなかったし、バンドをするのがごく日常的なことだったからさ。ブッチャーズの後半はいろんな葛藤とか苦悩の中でバンドをやってた時期もあったけど、それもイヤならやめればいいだけの話なわけ。それでもやめられない何かがブッチャーズにはあったんだよ。俺は「今ここでやめたらもったいない」って思ったことがなかったし、何かあればいつでもやめる気でいた。でも、そうはならなかった。それはさっき話に出た札幌時代の礎があったからこそなのかもしれない。
小松:僕もバンドを続けていく中で「こんなことが続くくらいならやめたっていいや」って気持ちが常にあったと思うんだけど、ブッチャーズの後半はそんな気持ちすらも超えちゃった感じがありましたね。
生きてる限りはいつでも一緒に音楽をやれる
──ちょっと踏み込んだ話になりますけど、今後、ブラッドサースティ・ブッチャーズの名義でライブをやる意向はありませんか。
射守矢:どうだろうね。実を言うと、吉村が他界した直後に小松からライブをやろうって提案があったんだよ。『youth(青春)』をお披露目してないってこともあってね。そこでライブなんてやれないと断ち切るよりも、やれる方法を模索するのもアリかなと自分では考えたものの、何をどうしていいのか全く答えが出なかった。別のボーカリストを立てるのか? とか、3人だけで表現する方法はあるのか? とかさ。
小松:ちょっとずるい考え方かもしれないけど、残された3人でライブをやって終わりになるのか、ならないのかは、実際にやってみないと分からないじゃないですか。吉村さんもそういうところがあったと思うんですよ。やってみて面白かったら、もっとやろうよってことになるし、やってみて違うようなら、そこでおしまい。その意味でもライブをやってみる意義があると思ったんです。
射守矢:ただ、ブッチャーズっていうのは常に作品を超えるライブをしてきたわけ。2013年の俺の心持ちとしては、それがもうできないだろうっていうのがあった。『youth(青春)』という作品を出せたものの、それを超えられないライブはイヤだなって思ったんだよね。時間が経てば気持ちが変化するのかもしれないけど、どう考えても吉村のギターと歌がないライブなんて到底できないと2013年の時点では思ってた。いろんなボーカルに協力してもらうって見せ方も個人的には違和感があったしね。
小松:あれから2年経って、心持ちは変わりました?
射守矢:今は徐々に変わってきたタイミングかな。
──それこそ先日の留萌凱旋ライブで披露された「9月/september」のように、何らかの形でお二人が揃うライブをこれからも見たいものですが。
射守矢:まぁ、そう焦るなって話だよ(笑)。小松はいろんなバンドやセッションを並行してできるけど、俺はそこまで器用じゃない。今は学とのバンドを始めたばかりだし、それをとにかく一生懸命やりたいんだよね。ブッチャーズでやってきたことを受け継ぎながら、ブッチャーズの時と同じスタンスでね。
小松:楽器が違うだけで、僕もやろうとしてることは射守矢さんと一緒なんですよ。いろんなことをやってるようで、僕自身の根本にあるものはブッチャーズの時と何ひとつ変わってないんです。
──それにしても、結成30年目に突入する11月14日にバンドの原点である初期ライブ映像&音源集が発売になるなんて、キレイにまとまりすぎている気もしますね(笑)。
射守矢:ブッチャーズとして出せる作品はこれで最後じゃないかな。解散表明もしてないし、バンドとしてどう締め括ればいいのか、もしくはこれからどう持っていけばいいのかっていうのを今もずっと考えてるんだけどね。『youth(青春)』以降、いろんな人たちの力を借りながらいろんな作品を出すことができたけど、そろそろこの先のことをちゃんと模索しなくちゃいけないな、とは思ってる。
──吉村さんの意思が明確にはたらいたアイテムとしては、確かにこれが最後のリリースになるんでしょうね。
射守矢:もう掘り下げるだけ掘り下げたでしょ?(笑) リリースするにもライブをするにも、決断するのはすべて吉村だったから、「吉村だったらどうするかな?」って未だにどうしても考えちゃうんだよね。このタイミングじゃなかったんじゃないかな? とか、思惑を推し量ったりする。でも今回の映像にしろ何にしろ、吉村も姿を見せたくないわけがないんだよ。ずっと人前に立ってライブをやってたわけだからね。
小松:僕個人の意見を言うと、リリースもライブもどんどんやっちゃえ! って気持ちがあるんです。吉村さんもそれをイヤだとは思わないはずだから。だって今回のアイテムにしても、吉村さんの大切な子どもみたいなものじゃないですか。
射守矢:確かにそうなんだけど、吉村が何に引っかかってるのかな? っていうのを俺は知りたくなっちゃうんだよ。どの部分で何をためらってるのかな? とかさ。その答えを自分なりに出せないと、責任を持って発売にOKを出せない。
──いずれ作品化してもいいなと思うライブなり企画はありますか。
射守矢:特にないかな。でも強いて言うなら、『未完成』を再現したライブはフルで映像作品になってもいいのかなとは思ったりする。映像が残っていればの話だけどね。ライブの完成度はどうか分からないけど、いい企画だったと思うし。
小松:僕は『kocorono』のツアーのカセットテープを持ってるので、それをいつか出してみたいですね。あとたとえば、吉村さんが残したデモを、射守矢さんと僕とちゃこちゃん(田渕ひさ子)で新たにアレンジして形にするのも面白いと思う。
射守矢:「余計なことすんな!」って怒られそうだけどね(笑)。でも、吉村にはどうしてくれんのよ!? って言いたいよね。こっちはまだ不完全燃焼なんだから。ただ今となっては、ブッチャーズとしてやれることは限られてるのかもしれないけど、限られた中でやれることをやればいいんじゃないかと思うんだよ。今考えてること、今やりたいことをさ。俺と小松とちゃこちゃんは今でもブッチャーズだし、あの4人のブッチャーズがもうできないのは確かだけど、形が変わってもやれることはまだあるだろうしね。こうして生きてる限りは、またいつでも一緒に音楽をやれるわけだからさ。