小松の加入で劇的に変化を遂げた音楽性
──小松さんが加入したのは結成から3年後の1989年で、当時小松さんが在籍していたバンドのリハに吉村さんと射守矢さんが突然現れて、スタジオのロビーで小松さんをスカウトしたというのは有名な話ですよね。
小松:その日、同じスタジオの隣りの部屋でブッチャーズがリハをやってたんですよ。ブッチャーズのほうが先に終わって、ロビーでその時のドラムが「やっぱりやれない」みたいな話をしてたんでしょうね。それでどうしようか? って話をしてる時に、そのスタジオのオーナーが「同じ地元の人が今スタジオに入ってるよ」って話したみたいで。
射守矢:それを聞いて、「すぐ紹介して!」って言ってね(笑)。紀代己が抜けた後、ドラムが何人も入れ替わって安定しない頃だったから。
小松:それこそ、今の×××××のドラマーが一度だけスタジオに入ったこともあるみたいだし。
射守矢:小松はそのスタジオの常連って言うか、そこのオーナーとけっこう仲が良かったんだよね。俺らは後からそこを使うようになって、オーナーを通じて小松とすぐにつながれたわけ。
──すでに札幌に出てきているわけですし、同じ留萌出身のバンドマンと出会えるとは運命的なものを感じますね。
小松:凄い偶然とも言えるけど、それだけ狭い街ってことじゃないですかね。
──でも、タカヒロさんから話を聞いていたブッチャーズの二人がいきなりロビーで待ち構えていたのは驚きますよね。
小松:確かに、武勇伝を中心にいろんな噂は聞いてましたけど(笑)、第一印象はそんなに怖い感じじゃなかったですよ。いわゆる荒れてた時期は通り越して、ドラムがいなくてホントにどうしよう? って感じだったんじゃないですかね。
射守矢:ちゃんと音楽をつくろうって段階の試行錯誤が続いてた頃だったね。武勇伝なんてくだらないことで嫌われたくないって言うかさ(笑)。
小松:なんて言いつつ、僕が加入した後にスタジオに入った時、そこに預けてあった吉村さんのアンプの真空管が誰かのいたずらで割れてたんです。その真空管を吉村さんが持って受付にバーン!って投げつけて、「ブッ殺されてぇのかよ!?」って絶叫してたこともありましたよ(笑)。大切にしてる機材だから、それも分かるんですけどね。
──小松さんが加入したことで、ブッチャーズは鋭利なリフとタイトなリズムに重心を置いたサウンドへと劇的に変化を遂げましたね。
射守矢:大きく変わったね。札幌で奇しくも地元の後輩と出会えたわけなんだけど、小松は俺たちの3学年下なんだよ。これがたとえば高3と高1くらいの学年差なら一緒に動ける感覚があるけど、それ以上離れると接点が全くないんだよね。だから小松は、いわゆる後輩って感じともまたちょっと違った。
小松:後輩って言うよりも、全く別の世代って感じですよね。
射守矢:うん。だから最初はどう接していいのかよく分からなかった。その当時は俺よりも吉村のほうがコミュニケーションを取ってたんじゃないかな。俺は全く取ってなかったよ。
──小松さんと初めてスタジオに入った時から「これはいける」という手応えがあったんですか。
射守矢:うん、あったと思う。
小松:その頃のブッチャーズは「SHE'S BREAK」や「I'm on fire」みたいな曲が主軸で、「こういう方向性でやっていこう」っていうのが僕の入る前からあったと思うんです。僕も初めてのスタジオに備えて、自分が入る前の音源をタカヒロから聴かせてもらったり、自分なりにポイントを把握して二人に寄せていったし、二人も僕に気を遣ってくれたところもあった。そうやってお互いに歩み寄ったのが良かったんじゃないですかね。
──ベッシーホールをホームグラウンドとした札幌時代のライブですが、動員は実際にどんな感じだったんですか。怒髪天とスキャナーズ(後のイースタンユース)との3組が揃うと満員御礼になったという話をよく聞きますけど。
射守矢:全然。満員になるほうが少なかったよ(笑)。
小松:僕が入った頃は、確かベッシーで30人とか50人くらいだったんじゃないかな。100人なんてまず入らなかったけど、僕が入る前はけっこう入ってたんじゃないですか?
射守矢:一番入ったのは小松が入る前で、300人くらい入ってフロアが全部埋まってた時期が一瞬あったね。でも俺たちは前しか向いてなかったから、お客さんはポカーンとして置いてけぼりになってた(笑)。
小松:お客さんが激減したのは僕のせいじゃないですよ(笑)。お客さんが求めるような曲をやらなくなって、徐々に引いていった感じなんですか?
射守矢:まぁ、小松が入ってから劇的に音が変わったからね。
「今の俺を聴け! 今の俺を褒めろ!」
──吉村さんも射守矢さんも、とにかく新しいものをつくることにしか興味がなかったと?
射守矢:いや、新曲をつくるのは意欲的だったけど、そんなに意気込んで新しいものをやろうと思ってたわけじゃない。吉村はいろんな音楽を聴いてたからインスパイアされるものがあったかもしれないけど、少なくとも俺はね。当時はまだオルタナティブって言葉が出てくる前で、全世界的にパンク・ロックを聴いて育った連中がそれをこねくり回して独自の音楽を生み出そうとしていて、その結果、欧米でも日本でも斬新な音楽が同じタイミングで出てきた。そういう転換期だったし、自分たちもたまたまその流れの中にいたってことじゃないかな。
──小松さんが紀代己さん時代のレパートリーをライブで叩くことはあったんですか。
小松:1、2曲を最初のほうのライブで数回やった程度ですね。それよりも新しい曲をつくりたくてウズウズしてたと思いますよ。僕自身、前のドラムがやってた曲をやるよりは、それを軸に考えながら新しい曲をつくるほうが楽しかったので。
──小松さんが加入して最初に出来た曲というのは?
射守矢:「SHE'S BREAK」とか「I'm on fire」とか、札幌にいた頃につくったファースト・アルバムの曲は小松が入る前からだいたいあった。実際、小松と対等な関係で3人で曲づくりをしたのは『LUKEWARM WIND』からなんだよ。それ以降は「もうお客さんじゃないよ」って感じでね。『LUKEWARM WIND』の頃は、吉村よりも俺のほうが小松に厳しかったんじゃないかな(笑)。それもあっと言う間に逆転されたけどね。小松は努力家だし、俺は努力しないから、「違うんだよ! なんか違うんだよなぁ!」みたいなことを吉村からよく言われたよ(笑)。
小松:僕の認識は射守矢さんとズレがあって、ファースト・アルバムに入ってる「DROP OUT」とか「SILENCER」なんかは僕が入ってからの曲だと思うんです。あと何曲かあるはずなんだけど、一番印象深いのは「KARASU」ですね。あのシングルに入ってる曲(「Mother Fucker」、「水」)を東京で録音した時に新たな方向性が見えた。それと、これもシングルだけど「ROOM」と「I HATE YOU」。「SHE'S BREAK」や「I'm on fire」で最初の変化があったとしたら、「KARASU」や「ROOM」でさらに大きな変化を遂げましたよね。
射守矢:ファースト・アルバムはけっこうポップなことをやってるんだけど、それからラウドでカオティックな方向にグッと行くんだよね。小松はその時期のことを言ってると思うんだけど。
──「KARASU」や「ROOM」は近年のライブでも披露されていたし、まさに初期の代表曲と言えますね。
小松:MOCK ORANGEと対バンした時、「KARASU」とかあの時期の曲をやったら、「あの曲は何? いつの曲だ!?」って凄く反応があったんですよ。FUGAZIと共演した頃にやってた曲だし、海外のバンドにもアピールできる何かがあるのかもしれませんね。
──どれだけノイジーでジャンクな方向性に振り切っても絶妙なポップさが根底にあるのがブッチャーズ・サウンドの特徴のひとつだし、それはこの初期ライブ映像&音源集を聴いても実感しますね。
射守矢:結局、吉村はシンプルなロックンロールとか初期パンクみたいなポップなのが好きなんだよね。それでいてギターに凝るのも好きだから、そこをどう折り合いをつけるかってところでずっと苦労してたんじゃないかな。でも、ポップな志向だったからこそブッチャーズの曲は耳に残るフレーズやメロディになったんだろうし、誰が聴いてもいいなと感じるものになったんだと思う。
小松:ポップなのが好きなのは僕も同じなんですよ。ただ3人ともひねくれてるから、ポップなものをそのまま素直にはやらない。それは生まれ育った所が同じ留萌っていう土地柄もある気がしますね。
──「ラリホー」、「never give up」、「ready steady go」といった札幌時代の人気ナンバーもずば抜けてポップですよね。そんなレパートリーをあえて封印して、「KARASU」や「SHE'S BREAK」といった路線に切り替えるのだから、潔いにも程があると思うんですよ。
射守矢:それは俺の意図ではないから(笑)。でも、新しい曲が出来ればすぐにライブでやりたくなるじゃない? 今が一番いいんだって言い聞かせながらやってたし。
小松:吉村さんは常に「今の俺を見てくれ!」って人でしたからね。過去のレパートリーももちろん嫌いじゃなかっただろうし、自分でつくった曲だから愛着もあったんだろうけど、昔の曲をリクエストされても「今の俺はダメなのか!?」って気持ちだったんじゃないですかね。それよりも「今の俺を聴け! 今の俺を褒めろ!」って感じだったと思う(笑)。