歌の中でなら死んだ人を生き返らせることができる
──「ラブレター燃ゆ」を筆頭に、今回はおおくぼさんの鍵盤がバンドの盤石のアンサンブルを支えていると思うんですが、もう何年も前からバンドに加入しているくらいの溶け込み具合ですよね。
浜崎:そう、不思議なくらいに違和感がないんですよ。
おおくぼ:みんなの嗜好と似てる部分がもともとあったんですよね。僕にはど真ん中すぎてやるのをためらう表現をアーバンギャルドは堂々と、しかも格好良くやってるのを見て、「ああ、これでいいんだな」と思ったりして。自分の中に本来あるものをみんなが引き出してくれたから、違和感なくやれてるんじゃないですかね。
松永:おおくぼさんも僕もサブカル的な人間だけど、おおくぼさんの世代ってたとえば、キューブリックをパクるのが恥ずかしいとか考えたりすると思うんです。なぜなら、あまりに大ネタすぎるから。でも僕らの世代だと、キューブリックをオマージュするのはもう一回転してるし、分かりやすいからOKなんですよ。昔で言えば、たとえばフリッパーズ・ギターはよりマニアックなものを好んでオマージュしていたけど、今のサブカル的な文脈の表現はマニアックだから良いってわけじゃない。どちらかと言えばコミュニケーション・ツールとして使われてるんだと思います。最近話題になった『おそ松さん』の幻の第1話にしても、いろんなアニメを引用するパロディはマニアックさを楽しむものじゃなく、アニメの文脈をコミュニケーションとして楽しむためのものだった気がします。「知識なんてあってもネットでググっちゃえば終わりじゃん」って言われたら終わりじゃんって時代ですからね、今は。アーバンギャルドも決してマニアックな方向に行きたいわけじゃなくて、いろんな音楽をやってるし、いろんな要素があると思うんですよ。
──そうですよね。本作の収録曲はどれも一度聴いたら口ずさめるポップさがあるし、歌詞カードを読まなくても何を唄っているのかちゃんと分かるのが実は凄いことだと思うんです。
浜崎:それはディレクターが凄く言葉にこだわる方で、よく聴き取れなかったら録り直しをする歌入れだったからかもしれません。言葉が耳から視覚として入ってこなければ意味がないという持論がディレクターにはあって、そこは凄くこだわって録りました。
──ちゃんと聴き取れるように徹底して唄ったのは初めてですか。
浜崎:前作の『鬱くしい国』からですね。アーバンギャルドは言葉や歌詞にこだわるバンドというイメージの割に、歌がちゃんと聴き取れないなと『鬱くしい国』のレコーディングの時に凄く感じたんです。それからだいぶ勝手が分かってきたので、今回はかなり意識して歌入れに臨んだんですよ。
──天馬さんが唄う「詩人狩り」はアーバンギャルドにしては珍しいファンキーな四つ打ちナンバーで、アレンジはブライアン・フェリーを彷彿とさせる部分もありますね。
おおくぼ:ああ、「TOKYO JOE」みたいな(笑)。あの辺は僕の要素です。
松永:今までアーバンギャルドが本当の意味でブラック・ミュージックの要素を取り入れたことはなかったんです。それは多分、今までサウンドのボトムが意外と弱かったからだと思うんですよ。でもおおくぼさんが入ったことで腰からノレる曲が増えて、ボトムも出るようになった。「詩人狩り」と「ゾンビパウダー」はおおくぼさんのテイストが強くて、ブラック・ミュージックをアーバンギャルドの方法論で換骨奪胎した曲ですね。
──「シンジュク・モナムール」はアジアっぽいメロディ・ラインと性急なニューウェーブ・サウンドを融合させたユニークな楽曲ですね。
松永:メロディは僕が作ったんですけど、チャイナ風のニューウェーブをやってみたかったんですよね。
──橋本治の「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている」という名コピーを連想させる歌詞がありますが、あれはどんな意図があったんですか。
松永:昨年、60年代の新宿について調べる機会があったんです。大島渚の『新宿泥棒日記』という映画があったり、寺山修司の「天井桟敷」や紅テントで知られる唐十郎の「状況劇場」があったり、駅の西口では学生たちが集会をしていて…っていう、当時の新宿という街のダイナミズムに惹かれたんですね。それを曲として描いてみたかったんです。
浜崎:今は新宿の街もだいぶ様変わりしましたけど、この曲の中で描かれる新宿はまだコマ劇場があった頃のイメージですね。
松永:今の新宿ロフトにはまだ混沌としていた頃の新宿の匂いがあるけど、コマ劇場がなくなった後、TOHOシネマズが出来てからの歌舞伎町近辺は猥雑な雰囲気がなくなって、もはや新宿らしくないですね。池袋でも渋谷でもみんな似たり寄ったりで。60年代の新宿は街全体が芝居小屋みたいだったし、もしもこの世が芝居と言うのなら、最期まで生きて演じきるのもいいんじゃないか? と唄ってるんです。それと、60年代の新宿にしろ90年代の渋谷にしろ、失われたものを歌の中で蘇らせたい気持ちが僕にはあるんです。亡くなった人にしても、人間は記憶の集積で生きてるから、記憶を留めることでその人は死なない。歌の中でなら生き返らせることもできる。
──レコードの中に閉じ込められた少女を歌の中で生き返らせろ、という「昭和九十年十二月」の天馬さんの語りの部分につながりますね。
松永:ただ今の時代、生を実感しづらいと言うか、生と死の境目がだんだん曖昧になっていると思うんです。
おおくぼ:もし天馬君が死んでも天馬botが毎日何かしらつぶやくかもしれないし、それはある意味、生きてるのと変わりがないしね。
浜崎:死んだ人のアカウントもずっと残ってたりするし。
瀬々:hideさんも亡くなって何年も経ってから新曲が出たしね。
浜崎:新曲はおろか、3Dになってライブまでできちゃうし。
おおくぼ:そう言えばここ数年、いつまでも若くて年を取らないように見える人が増えたよね。
浜崎:でも、今はみんな年を取ることの恐怖感が凄いよね。年を取るのは生きてて当たり前のことなのに。若いことばかりが価値じゃないのに、若さばかりがもてはやされるのが不思議。