PERSONZにとって一番の転機
──ところで、現編成となって初のLOFTでのライブ(1984年6月21日)のことは覚えていますか。
渡邉:よく覚えていますよ。藤田が入って初めてのライブでしたからね。
JILL:対バン形式でやりましたよね。
──はい。サムライというバンドなんですが…。
JILL:それは全然覚えてない(笑)。多分、店のブッキングだったんじゃないかな。それか、LOFTの知り合いのスタッフに「ライブをやらせて下さい」とお願いしたんだと思います。サムライも一緒にライブをやったくらいだから、全く知らないわけじゃなかったんでしょうね。でも、この日のライブは大変だったんですよ。ライブが終わった途端に、それまで手伝ってくれていたKEITH(ARB)やコバン(小林高夫/アナーキー)とかに「彼(藤田)はやめておいたほうがいいよ」なんて言われたので(笑)。私は全然大丈夫だと思ったんですけどね。当時のライブ音源はほとんどカセットで残っていて、その日のライブもあるんですけど、セットリストの真ん中くらいでやっと藤田君を紹介してるんですよ。「新しいドラム、ベニーちゃんです!」って。
渡邉:LOFTの音源はけっこうマメに残ってるんですよね。
JILL:ラインで録ってもらったのがけっこうあるんです。今聴くと拙い演奏だし、私の唄い方も全然違ってて面白いんですよね。あと、当時はなぜか私がやたらと怒っていたりして。数少ないお客さんに対して、「なんでこんな盛り上がりしかできないの? バカじゃないの!?」なんて凄い失礼なことを言ってるんですよ(笑)。
──なぜそんなに苛立っていたんでしょう?
JILL:自分たちの演奏に満足してなかったんじゃないですかね。当時はただがむしゃらにやってたし、今みたいに余裕がなかったんですよ。だからメンバーの演奏や自分の歌が良くないと、そのフラストレーションをお客さんにぶつけていたんです。
──今までさんざんお話しされてきたとは思うんですが、LOFTと聞いてすぐに思い出す景色はどんなものですか。
渡邉:やっぱり、便所かな。あと、便所からつながった裏側の階段。全然ステージとは関係ないけど(笑)。
JILL:私は潜水艦ですかね。
渡邉:潜水艦は記憶にないなぁ…。
JILL:初期の頃にあったの。店の真ん中に潜水艦のオブジェがあって、その脇に座る席があるんだけど、潜水艦のお陰で凄く狭かった(笑)。LOFTは高校の頃に初めて女子バンドで昼の部に出て、とにかく恐ろしい所としか思えなかったですね。周りはみんな怖い大人たちばかりだったから。
──PERSONZはLOFTのオーディションを受けたことがあったんですか。
JILL:ないですね。当時の店長にネジ込んで出させてもらったので(笑)。その頃のLOFTはそれまでのニュー・ミュージック系と違って、出る側も見る側も若い人たちが多かったんですよ。私たちがちょうどLOFTに出るようになるちょっと前にBOφWYがLOFTを満杯にしていた頃だから。客として通っていた頃も、自分たちが出るようになってからも、何しろ独特な雰囲気だったのは変わりないですけどね。なんでこんな地下深くまで潜らなくちゃいけないんだ? っていう(笑)。あと、当時のLOFTはアフター・ライブのほうが過ごした時間は長くて、そこでいろんな人たちとの交流を育めた。その意味ではサロンみたいな場所でしたよね。どれだけLOFTで呑ませてもらったのかを考えると、あまりに恐ろしくて考えたくないですけど(笑)。
──歌舞伎町に移転してからも、こうして変わらずLOFTに出演していただけるバンドも少なくなってきたので、有り難い限りです。
JILL:昔のLOFTのライブ音源を聴くと、自分たちが思ってた以上に演奏できてなかったことがよく分かるんですよ。こうしてまたLOFTでライブをやることで、そういった原点に立ち返ることができるんです。当時はまだ「DEAR FRIENDS」もレパートリーになかった頃で、そこからどんどん成長して今に至っているから、昔を振り返ると恥ずかしさばかりが先に立つんです。でも、そういうのも悪くないなと思う。過去を過去のものとして進んでいくままだと、自分たちの変化を感じ取ることもできませんからね。
──30年のなかでバンドにとっていくつかターニング・ポイントがあったと思うんですが、あえて挙げるならどんなことですか。
JILL:私はやっぱり、LOFTで起こった私的なトラブルですね。あの事件が起きて、もうバンドはやめるはずだったので。PERSONZを結成した翌年の出来事だったんですけど、当時はすでにARB OFFICEとも交流があったし、そろそろデビューできないかと考えていた頃で。でもあんなことが起こって、「もうデビューできる可能性はない」と周囲からも言われたし、そこでバンドが終わるのが普通なんでしょうけど、私が退院するまでメンバーがずっと練習を続けて待ってくれていたんです。そこからバンドの風向きが変わったんですよね。メンバーの1人がダメになりかけても、他のメンバーは「まだやれる」と思ってくれていた。だからこそ今があるんです。その年の終わりに完成した「DEAR FRIENDS」も、あの事件がなければ生まれなかった曲ですからね。もしあの事件でバンドが終わっていたらデビューすることもなかったし、「DEAR FRIENDS」が生まれることもなければ、オリコンで1位を獲ることもなかった。もちろん時代の追い風もあったんでしょうけどね。当時の私たちは動員も少なかったし、あの事件でバンドが終わっても誰も気にしなかったと思うんです。でも、どういうわけかみんなは「やろう!」と思っていてくれた。それがPERSONZにとって一番の転機ですよね。















