キン・シオタニを一言で説明するのは、なかなか難しい。街中の看板やCDのジャケットやテレビ番組で独特なタッチのイラストを目にすることもあれば、本も出版しているし詩も書く。井の頭公園では自作のポストカードを販売している。かと思えば3年続いている冠番組ではゆるゆるトークを携えて全国を旅して歩き、阿佐ヶ谷ロフトAで不定期開催されているトーク&絵描きライブ『描き語り』はここのところ毎回ソールドアウト。と、ここまで書いたところで彼の仕事のごく一部をカバーしたに過ぎない気がしてきたが、だからって「神出鬼没!」みたいな仰々しい看板は似合わない。ひょこっと、いつも変わらない飄々とした立ち姿で、昔から知っている友達のような距離感で、気付くとそこにいる。そんな、気のおけない男キン・シオタニの入門編的インタビュー。(取材・文/前川誠)
旅のはじまり
──キンさんのことを他人に説明しようとすると、活動の幅が広過ぎて一体何と言ったら良いのか分からないんですが、キンさん自身は自己紹介のとき何と言ってますか?
キン たとえば本も出してるし、詩も書いてるし、コントの台本も書いたことあるし、テレビにも出てるし、講演会とかライブもやる。これが寺山修司さんだったら「俺の職業は寺山修司だ」みたいな感じかもしれないけど、それほど自信もないから、確定申告のときに書く「イラストレーター」という肩書きを使ってるよ。
──そもそもイラストレーターになりたかったんですか?
キン 元々は旅行作家になりたかったんだよね。中学生の頃に友達同士で大阪に行ったとき、たこ焼きを買うのにわざと関西弁で「おっさん、これなんぼ?」って言ったら「250円やで」って返してくれたんだけど、それが今で言う、外国で英語が通じたくらいのカルチャーショックを受けて。そのときに旅ってすごいもんだなと思って、1人旅をするようになったんだよね。同時に、旅をするときに鈍行列車なので結構ヒマだから、例えば太宰治とかそのとき興味ある本をやたらと読むようになったんだよ。で、本も書きたい旅もしたいってなると、旅行作家かなって漠然と思うようになった。
それで大学生のときに、師匠のクリス・モズデルさん(YMOの歌詞などを担当しているイギリスの詩人・作詞家・作曲家)に会ったときから、単純に詩人になりたいと思うようになって。それで谷川俊太郎さんとかに会って、詩がもつ繊細で暴力的な表現手段に憧れて詩人かぶれになった。でもある出版社の人に会ったとき「詩人は食えるようじゃダメだよ」って言われて、なんかそんな世界イヤだなって思うようになったんだよね。
同時に僕はその頃いたずら描きっぽい絵を描いていて、よくクリス・モズデルに「これ良いね。絵描きになれば?」とか言われてたんだけど、絵の場合は観た瞬間に好き・嫌いがすぐ判るから、人から評価をもらうのが早いなと思ったわけ。例えばぼくがその頃書いた言葉遊びで「神の反対は犬/悪の反対は生活」っていう2行だけの文章があって、それは「神=GOD」の反対は「DOG=犬」で「悪=EVIL」の反対は「LIVE=生活」っていう意味だったんだけど、それもあんまり解ってもらえなくてこっちが説明して初めて伝わったし、でも同時に、100人に言って100人に伝わるようじゃそれも詩としてはダメだと。それが結局「詩人は食えるようじゃダメ」っていう言葉にも通じるし、それは詩人としては正論だったかもしれない。ってことは、そのマニアックさはもちろん好きだったんだけど、どっかで自分は大きい矛盾を抱えるだろうなと思って、止めたんだよね。
で、とにかくその時はぼくが世の中に出る突破口を見出したいときで、それはたぶん旅行作家でも詩人でも何でも良かったんだよ。ゼロじゃなくて、1にしたかった。1を10とか100にするのは頑張ればできるかもしれないけど、ゼロを1にするための突破口をいろいろ試行錯誤してたんだよ。で、そのきっかけがポストカードだった。
無気力爆発時代
キン その頃、芦沢くんっていう友達が何かビジネスやりたいって言っていたんだよね。最初はぼくがデザインしたTシャツを2人でお金出して作るはずだったんだけど、Tシャツって結構高いわけ。当時のぼくたちの持ち金だと10枚か20枚くらいしか作れなくてそれだとビジネスにならないから、じゃあポストカードを作ろうと。ポストカードだったら当時1枚20円くらいで出来たから、2人で5万円ずつ出しあってポストカードを500枚ずつ10種類、全部で5000枚作った。で、作っちゃったからどこかのお店に置いてもらおうって営業して、青山ブックセンターが置いてくれたことで全てが始まったんだ。1じゃないかもしれないけど0.1とか、とにかくゼロじゃなくなった。それが95年の5月で、自分たちの歴史上すごく重要なときだったから今でも忘れないな。
──それまで絵の勉強はしたことあったんですか?
キン してないし、今でもまったくもってしてないよ。当時は就職もしてなかったから毎日ヒマで、自分が生きてるって充実感が欲しくて年賀状の余りに絵を描いてたわけ。そうしたらレベルは低いなりに「良いの描けちゃった! これはいつか世の中に出る!」って漠然とした根拠のない自信をおぼえて、取っておいたんだよね。それはぼくが「無気力爆発時代」って呼んでた3年間。大学卒業して世の中に出るまでの、何もしない、貯金を食いつぶすだけの、楽だったけど楽しくなかった時代。いつも散歩の帰りに小平のミスタードーナッツで絵を描いてたんだよね。そのときはアール・ヌーヴォーのオーブリー・ビアズリーっていう人が好きで、その絵を真似してただけだと思う。とにかく空間を埋める描き方で、縄文土器なんかにも見られる「空間恐怖」っていう言葉があるんだけど、とにかくちょっとずつ時間と空間を埋めて生きたっていう証を得ようとしていた時代なんじゃないかなって思う。で、2年後にそれがポストカードになって世の中に出てからは、「青山ブックセンターにも売ってるんですよ」って言いながら芦沢くんが別の店にも持っていってくれたわけ。そのときから手探りの営業っていうのを学んでて。で、10月に井の頭公園の路上で売ることを思いついたのね。
──それはどういったきっかけで?
キン そのときとにかくぼくはヒマだったんだよ。することと言ったら朝起きて10時くらいに時代劇の再放送を観て、誰からも連絡がなかったら井の頭公園に自転車で散歩に行って、同じ鴨に何回連続でカールをあげられるかとかやってたんだけど、そのときパトリックっていうフランス人が園内でアクセサリーを売ってたのね。それを見てぼくもポストカードも売って良いかもと思って、次の日、ポストカードをリュックに入れて持っていって、玄関の足拭きマットの上に置いて、パトリックに「隣でこれ売って良い?」って訊いてOKもらって売り始めた。そこからはヒマだから毎日行ったね。そのときも「ここで買わなくて良いから青山ブックセンターで買って」とか言って、素のマーケティングができてたんだよね(笑)。今日の1,000円より1年後の100万円、みたいな。お店で売れた方が何か広まるんじゃないかって。公園は今でもやってるけど、最初に路上で絵を売ったのはぼくが初めてだと思うよ。路上販売自体はパトリックが多分最初のファウンダーだと思うけどね。
──で、それからいろいろあった訳ですけど。
キン それから2、3年したときに路上ブームっていうのが起こったんだよ。ゆずとか、絵で言えば326(ナカムラミツル)って人がいて、それが同時に自然発生的に出てきて。で、326さんがすごい売れて急に「今こういう路上詩人がいっぱいいて」って言われるようになった。ぼくはもちろん路上詩人じゃなくてただの露天商として絵はがきを売ってただけなんだけど、何となく同じくくりに入れられたんだよね。たとえば『AERA』とかでも326さんが全面で特集されて「あとはこんな人もいるよ」っていう枠の3番手、4番手くらいによく入れてもらってたわけ。あとは、本当に326さんと同じような出版社から本も出してもらったり。ほんと彼のおかげで、売れもしないし増刷したこともないのに全部で9冊くらい本が出た。それはデカイと思うな。
その後たぶん99年くらいに、とりあえずそんな感じでぼくの名前も知ってる人は知ってるっていう状態になった。で、吉祥寺の本屋さん「ブックス ルーエ」さんが、ブックカバーの依頼に来たんだよね。そうするとありがたいことに1日1,000人くらいのお客さんにどんどんブックカバーが出るわけで、特に中央線周辺を中心にぼくの絵を広めてもらう結果になった。それで路上もやってる、本も出してる、ポストカードも店で売ってるという、いろんなエリアが同時に別のところから広がって、それがさっきの「職業はなんですか?」っていうところに繋がるんだよね。