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INTERVIEW

トップインタビューSTREET KINGDOM 地引雄一インタビュー('09年1月号)

今だ鳴りやまぬ都市を生き抜くためのビート
東京ロッカーズと80'sインディーズシーンの軌跡

2009.01.05

日本のそれなりに長いロックの歴史の中で転換期と呼べる時代がいくつか存在する。例えば、70年代初頭、フラワー・トラヴェリン・バンド、はっぴいえんど、頭脳警察などが活動していたニューロックの時代は日本のロック勃興期として非常に重要な時代だった。そして今回取り上げる東京ロッカーズと80'sインディーズの時代もまた、語るに足る大きな転換期の一つだ。
先日発売された書籍『ストリート・キングダム』は、1978年に誕生した東京ロッカーズから80年代前半のパンク/ニュー・ウェーブの時代の出来事を当時の写真や資料と共にまとめたものだ。初版は1986年で長らく絶版だったが、幅広い世代から多くの要望を受け、大幅な資料追加と加筆の上、改訂版として待望の復刊を果たした。著者の地引雄一はこのシーンの貴重な証言者であり、また立役者でもあった人物だ。東京ロッカーズが生まれてから今年で30年。あの熱狂の時代を地引は今、どのように捉えているのか。
(写真提供:地引雄一/文責:加藤梅造)

パンクの衝撃

 1976年にロンドンで巻き起こったパンクロックの波がその後日本にも押し寄せたが、地引雄一は海の向こうのパンク・ムーヴメントに時代の変化を感じて夢中になった日本人のうちの一人だった。
「僕は当時あった『平凡パンチ』という雑誌に、短い髪を突き立てた女の子の写真と一緒に、ロンドンでパンクロックというのが流行っているという小さな記事を読んで、これは何かとんでもないことが起こっているぞと強い衝撃を受けた。そしてすぐに、輸入レコード屋でパンクのシングルを買い漁ったり、ミニコミで情報を収集したりと夢中になっていた。ただ、僕自身がロンドンに行って現地のパンクシーンを見て来ようという気持ちはあまりなく、日本でもこういうムーヴメントを起こさなければ意味がないと思っていた。」
1978年、地引は日本のアンダーグラウンドロックを扱った数少ないミニコミ誌『ロッキン・ドール』を通じて紅蜥蜴(のちのリザード)というバンドに出会い、最初はカメラマンとして日本のパンクシーンに身を置くことになった。紅蜥蜴の周辺には、互いに引きつけ合うように、ミラーズ、ミスター・カイト、S-KEN、そしてフリクションといったパンクに直接影響を受けていたバンドが集まってくる。ほどなく紅蜥蜴はバンド名をリザードと改名し、この5つのバンドが共同でライブ活動を始めるようになった。ライブの名前として「東京ロッカーズ」という言葉を使いはじめ、それが後にこのシーン自体を表す名称となった。 「その当時、同時多発的にいろんな場所でいろんな人が今の状況をなんとか変えようとしていた。それはもちろんパンクの影響もあったし、とにかく今何かを始めなければいけないという共通の思いを持った人たちがだんだん集まってきたことで、東京ロッカーズのようなひとつの形になっていった。バンド同士、決して仲が良かったわけでもないし、かといって戦略上つきあってたわけでもなく、やっぱりその時一緒にやることの意味をそれぞれが感じていたんだと思う。決して、誰かが旗をふってそれについてくようなものではなかったのが、ムーブメントがあれだけ大きくなった理由だと思う。」
世代も音楽性も様々な彼らに共通する思いとは一体どんなものだったのだろう。
「皆、60年代の熱気がすっかり冷え切っているという感覚は持っていて、それまでと同じ方法ではなく全く新しいことをしなければこの状況は打破できないと考えていた。だから、フリクションのレックとヒゲはニューヨークに行って、パンクやノー・ウェーブを肌身で感じてきたし、リザードは紅蜥蜴から名前を変えてそれまでのスタイルを一変した。」

東京ロッカーズの時代

 同時期に六本木にできたS-KENスタジオで、東京ロッカーズの定期的なライブが行われるようになった。東京に初めてできたパンクの拠点ということで、ライブは口コミで話題になり、日に日に動員を伸ばしていく。そして、新宿ロフトを初めとするライブハウスでのギグ、関西へのツアー、京大西部講堂でのライブなど、東京ロッカーズのシーンはものすごいスピードでストリートに浸透していった。
そしてこの動きを既存の音楽業界も注目しはじめ、1979年にはCBSソニーからフリクション、リザード、ミラーズ、ミスター・カイト、S-KENの5バンドからなるオムニバスアルバム『東京ROCKERS』が発売された。録音は1979年3月11日に新宿ロフトにてライブ収録され、彼らの荒削りな生々しい音をリアルに伝える内容であった。しかし、メジャーからアルバムをリリースすることに対して批判的な意見も少なくなかった。それまで既存の音楽業界とは無縁でやってきた東京ロッカーズが商業的に業界に組み込まれることのジレンマは、これ以降のインディーズロックすべてにつきまとう問題でもあった。それはさておき、このアルバムの発売によって東京ロカーズはいよいよ全国区に知れ渡り、関西をはじめ、名古屋、九州のライブツアーも大盛況となった。そして彼らはこのアルバム発売を最後に東京ロッカーズの名を封印した。
「東京ロッカーズというのはシリーズライブの名称だったんだけど、使用したのは実質1年間だけでしたね。アルバム『東京ROCKERS』が出て以降、メディアから何か派閥のように扱われるようになったんだけど、自分たちは派閥を作った覚えもないし、東京ロッカーズはあくまで理念であって、決してあの5バンドが東京ロッカーズだとも思ってなかった。もはや東京ロッカーズという名前は足枷でしかなかった。」

DRIVE TO '80s

 カメラマン、またミラーズのマネージャーとしてこのシーンにどっぷりと浸かっていた地引は、この年の夏、新宿ロフトで6日間にわたるシリーズライブ『DRIVE TO '80s』を企画した。当時S-KENのマネージャーだった清水寛と地引が制作の中心となり、東京ロッカーズだった5バンドをはじめ、当時の新しいシーンであったテクノ・ポップのバンドや、関西、名古屋で活躍するバンドなどおよそパンク/ニュー・ウェーブと言われるバンド達にかたっぱしから声をかけた。その結果、『DRIVE TO '80s』は時代の最先端のバンドが一同に介する盛大なフェスティバルになったのだ。
「あれはロフトの平野さんが夏休みの終わりにでかいイベントをやってくれって頼まれたからやったんだけど(笑) でもそれは東京ロッカーズ以降の新しい方向を模索する絶好のチャンスだった。それでバンドの人たちも集まってどんなイベントにしようか何回か話し合った。最初は反対意見もあって、イベントが失敗したらシーン自体が失速してしまうんじゃないかという心配もあったんです。それで結局僕と清水さんがストリート・サバイバーと名乗って運営の中心になった。東京ロッカーズの頃はバンドが主体で運営していて、僕はただの使いっ走りだったんだけど、この時はイベントの実行委員会はバンドとは別に設けることになって、それで僕も初めて制作を担当することになったんです。」
この頃になると、東京ロッカーズの蒔いた種はあらゆる場所で多くの芽を吹き出していた。1980年にはスターリンやじゃがたらをはじめ、ゼルダ、オートモッドなど、ストリートを拠点にするバンドが次々と登場した。
「俺なんかもそうだけど、カメラやってる奴やデザイナー、ミニコミ作ってる人、そしてこういう音楽を求めてライブ会場にやってくる観客の人たち、それらの総体が東京ロッカーズだったんじゃないかと思う。いち音楽のシーンに限らず、ファッションや文化全体を含め、ライフスタイルの変革こそが一番重要なことだった」

インディーズの誕生

 80年代以降のパンク/ニュー・ウェーブ・シーンで最も重要なことの一つは、レコードを自主制作するシステムを確立したことだ。これはのちにインディーズと呼ばれるようになり、レコードを自主制作するバンドの総称としても使われるようになった。地引も多くのバンドのレコード制作を手がけるようになり、インディーズレーベル「テレグラフ・レコード」を発足した。
「その頃、いわゆる大手プロダクションに所属した『業界ニュー・ウェイブ』と呼ばれる即席バンドがメジャーから次々デビューしていったんだけど、ライブの実績もないバンドがメジャーデビューする一方で、ライブハウスで盛りあがっている実力のあるバンドがデビューできない、この状況は一体何なんだろうと? と不思議に思っていた。結局、それはプロダクションの力やレコード会社の意向など音楽業界の構造そのものであって、それに当てはまらないバンドは大手のレコード会社からはデビューできないということだった。でも、ストリートシーンにいるバンドのほとんどは既存のプロダクションに入ることすら嫌がる連中ばかりだったし、たとえメジャーから出すにしても、リザードみたいに、自費でロンドンに行って原盤を録音し、それを持ってメジャーと契約するといった形で、あくまで主導権はバンドが持つことにこだわった。そういう状況にあって、バンドが自分たちの意志を自由に表現できるレコードを作るためには、自力でレコード制作から流通までのシステムを作ることが最善の方法だった。」
80年代前半は、まさにインディーズ・ロック成長の歴史でもあり、1986年にはNHKで「インディーズの来襲」という特番が組まれる程になった。インディーズの立役者でもありシーンの中心にいた地引だが、ますます大きくなっていくインディーズ・シーンに対して大きな危機感を抱いていた。もはやインディーズは普通のビジネスであり、既存の音楽業界と同じものになってしまったのではないか。1986年に初版が出版された著書『ストリート・キングダム』はそれほど反響を呼ぶこともなく、インディーズ・レーベルに意欲を失った地引はテレグラフ・レコードの活動を停止した。

東京ロッカーズの再評価、『ストリート・キングダム』の復刊

「『ストリート・キングダム』が最初に出た当時は、インディーズ・ブーム真っ最中で大手の資本がどんどん参入してくる状況だったから、東京ロッカーズなんてほとんど忘れ去られた過去の遺物だった。でも、今振り返って東京ロッカーズを考えると、ただ単にパンク、ニュー・ウェーブという意味だけでなくて、日本のロック史の中でも非常にエポックメイキングなことだったと思う。何が新しかったかというと、それ以前の日本にあるロック文化は輸入中心の文化だったと思うんです。レコードを聴くことがロックに触れる一番の行為で、当時の音楽雑誌──ロッキン・オンやミュージック・マガジンなどもレコードを題材にしてロックを語るという方法がメインだった。それが東京ロッカーズ登場以降、ライブハウスなどの街角で生まれ、日々変化しているロックの現場を僕たちが直接体験できるようになった。レコードを通してじゃなく直に音楽に触れるようになった。そしてこのムーヴメントが、それ以降のインディーズ・ブームやバンド・ブームにも直接つながっていったことも大きい。そこに大きな意味があったんじゃないかな。」
一度は音楽から離れた地引は、90年代のオルタナティブ・ミュージックとの出会いなどもあって、再びストリート・シーンに関わるようになった。雑誌『イーター』を主宰し、1999年には、東京ロッカーズから現在までのストリート・ロックを横断する7日間のイベント『DRIVE TO 2000』を主催した。
「本当はもう隠居しようと思ってたんだけど(笑) なんか気がつくと東京ロッカーズの所に引き戻されてしまう。特に若い世代における関心は年を経るにつれ高まっているように感じる。1978年に東京ロッカーズのムーヴメントが起こったのが時代の流れだとしたら、今またあの時代が再認識されているのも時代の流れかなと思う。だから僕も出来る限り次の世代に伝えていきたいし、DRIVE TO 2000のようなことを今後もやっていければと思う。」
ロックという音楽は常に今の時代を表現するものであるが、それを一歩でも前進させるためには、今だけでなく過去の歴史を振り返ることも非常に大切なことだ。今回復刊された『ストリート・キングダム』は改訂にあたって、写真やフライヤー資料の追加に加え、当時地引がハンディビデオで収録した貴重なライブ映像がDVDとして付録になっていることも実に嬉しい。ロック史の中でもとりわけ重要な1978年以降のシーンを理解する上で、これ以上ないぐらいに充実した書物と言えるだろう。一介のロックファンとして、今回の復刊を心より喜びたいと思う。(文中敬称略)


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ストリート・キングダム
東京ロッカーズと80’sインディーズ・シーン

地引 雄一 (著)
(K&Bパブリッシャーズ)2900円

amazonで購入

※13バンドの未発表ライブDVD付き

LIVE INFOライブ情報

発売記念イベント
2009年1月22日(木)
DVD未収録ライブ映像上映とトークで伝説の時代を振り返る夜
【出演】地引雄一、高木完  
【Guest】モモヨ(LIZARD)、恒松正敏(ex.FRICTION,ex.EDPS)、チコ・ヒゲ(ex.FRICTION)、ジュネ(AUTO MOD)、宙也(ex.ALLERGY)、杉林恭雄(くじら)ほか、ゆかりのミュージシャン多数来場
Open18:30/Start19:30
前売り¥1500/当日¥1800(共に飲食代別)
ローソンチケット【Lコード:32756】
場所:ロフトプラスワン

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