▲爆発的にヒットした漢字練習帳『うんこ漢字ドリル』(文響社)。
投稿界のニュータイプ現る
──初投稿は?
本多:8歳の時に『コロコロコミック』の投稿コーナーにイラストを送った時です。
──その時は採用された?
本多:されました。なので、初採用はイラストです。当時のペンネームは『人間大好き』でした。
──ペンネームはいつから『本多平八郎』になったの?
本多:ペンネームは『人間大好き』、『国語辞典』、『実況生中継』と来て、『本多平八郎』になりました。戦国時代の武将である本多忠勝の幼名から付けました。
──ではいつか『本多忠勝』に変わる可能性があるってことだね。好きな槍は蜻蛉切?
本多:好きな槍について考えたことはないですが、きっとそうかもしれません。
──というか、投稿の入口は雑誌だったんだ。勝手にラジオかと思ってたよ。ラジオはいつから?
本多:中学生になって深夜ラジオを聴き始めました。地元(青森)の新聞のラテ欄に、地元局やNHKの番組表に混じって東京のラジオ局の番組が夜帯だけ掲載されていて、それで夜に周波数を合わせてみると「あっ、聴こえる!」ってなって、そこからでした。
──その頃聴いてた番組は何?
本多:ニッポン放送の『オールナイトニッポンSUPER』をよく聴いてました。
──『オールナイトニッポンSUPER』ってあったな。
本多:22時から24時までやってて、普段はそこでラジオを聴くのを止めるんですが、試験前とかだと勉強が終わらなくて金曜に24時からやってた文化放送の『MEGA MAX』を聴いていた記憶があります。まるでMAXと一緒に女子会に参加しているかのような番組でした。
──全然知らない番組! コーナーはあった?
本多:特定のコーナーはなく、MAXに質問を送って、それに対し10分くらいかけておしゃべりしながら答えていたと思います。「男女に友情関係は成立すると思いますか?」みたいなやつを。で、いろいろ聴いているうちにラジオ番組の楽しそうな雰囲気に自分も混ざりたいと思ったのがきっかけで、投稿を始めました。ラジオでの初採用は『ゆずのオールナイトニッポンSUPER』だったと思います。2、3カ月ボツになった後での採用だったかな。中2の時でした。
──コーナーは覚えてる?
本多:最初に採用されたのは、短文ネタの『21世紀のハイチーズ!』でした。あとは、毎週テーマを決めてゆずの2人がどっちのチームを応援するかを投稿する長文コーナー『やんのかコラ!シアム』とかがありました。
──タイトルだけだとまったくどんなコーナーか想像つかない!
本多:2週に1回くらいのペースで採用されるようになって、常連ハガキ職人十数人によるネタ対決みたいなのには呼ばれました。
──中学生で呼ばれたの! 天才子ども投稿者みたいだな。投稿界のまえだまえだ。
本多:高校に入ってからはインターネットで他のハガキ職人と交流を持ち始め、さまざまな番組に送るようになりました。他のハガキ職人とはTeaCupのBBSとか、したらばのBBSとか、チャットとかでネタ会話や情報交換をしてました。
──TeaCupの掲示板をレンタルしてたなぁ。懐かしい。本多君は投稿者のインターネットでの交流が一般的になった世代だね。そこからどういう番組に送るようになったの?
本多:ニッポン放送だと、『LF+R DREAM PLUS』『西川貴教のオールナイトニッポンSUPER』『ビビるのallnightnippon-r』『たまそう音楽堂』などですね。文化放送だと『品川庄司のLIPS PARTY 21.jp』、地方局だとCBCラジオの『ダイノジのキスで殺してくれないか』あたりです。当時はまだ青森だったので、ラジコプレミアムがないのに愛知の番組を聴いていたなんて自分でも驚きです。
──いろいろ出してる! 他の投稿者と交流を持つとか、いろんな番組に送るとか俺とは正反対だから、新しいタイプというか、本多君には当時、世代を感じたことを覚えているよ。そんなにいろいろ投稿するとなると、どんなスタイルで投稿してたの?
本多:生放送のネタメールのテーマに素早く送るとか、知る人ぞ知るみたいな競争率が高くない番組に送るとかして、フットワークを軽くしました。それが採用増につながったと思います。
──まったく俺と正反対!
本多:採用されたネタが多いぶんだけ、採用されやすい方向性や独自性を把握しやすいので、無駄撃ちみたいなものも減らせたのかもしれません。
──無駄撃ちを減らす! 無駄撃ちが大好きだった自分が恥ずかしい。採用されない前提で送ることもあったなぁ……。本多君は投稿が競技化し始めた世代でもあるんだよね。だから本多君と話すとそこも新鮮だった記憶がある。他にはどんな感じで投稿してた?
本多:締め切りの逆算や、1枚1メールに送る量とかは、もちろん考えていました。毎週送り続けるのが大変だったので、高校時代は週末に隣の市の図書館の自習室でよく書いていました。毎週毎週。大学に入ってからも、大学図書館の自習スペースで書いていたと思います。そんなキャンパスライフでした。
投稿が今の仕事に生かされている
──そういうストイックさは世代関係なく共通だよね。俺が投稿者を好きな理由でもあるし。
本多:そんな中で、他の人も出しているからということでラジオから雑誌へと投稿の幅を広げていきました。
──どんな雑誌に出してたの?
本多:Sabraの『投稿銀河系パラダイス』、ヤングサンデーの『くるくる電波ぁ〜』、週刊ファミ通の『ファミ通町内会』、サラブレ『ますざぶ』とかですね。あとはSPA!の『バカサイ』。特に『バカサイ』では、2度優勝させてもらいました。
──本多君と出会ったのは『バカサイ』だよね。文字も文面も綺麗で、実際会ったら本当にまじめで。
本多:こちらこそ、せきしろさんにも椎名さんにも天久さんにも、大変優しくしていただいたことを覚えています。優勝旅行で、みんなで黙々と金毘羅山を登ったり、カラオケで『ミニモニ。じゃんけんぴょん』を唄ったり。
──本多君が優勝確実だった時、レース終了直前に誰かが大量のポイントを獲得したことなかったっけ?
本多:椎名さんと天久さんが2位の糞だるまさんの1ネタずつに30Pくらい入れたことがありましたね……。それで追いつかれて。何、この試練は? って感じでした。それでも優勝できたので嬉しかったです。賞品でもらったジャージ、今でも持っています。胸の部分にでっかく白字で「優勝、おめでとう」って書いてるやつ。
──そこから何度か会って。
本多:上京した当初は、大変お世話になりました。最初に住んだ家の保証人になっていただいたことも。
──保証人に! 完全に忘れてた。親に「保証人にはなったらダメだよ」とあれほど言われてたのに。
本多:荻窪の秋吉で焼き鳥をいただいたことも、すてきな思い出として残っています。
──秋吉! これまた懐かしい。あの頃いた人はまだみんな元気だったよね。もう何人か亡くなってるし……。話は変わるけど、本多君ってさっきも言ったけど俺から見ると新しい世代の投稿者で、絶えず過渡期にいた気がするんだよね。投稿が競技化されたり、大喜利が普及してきた頃でもあって。投稿者は受動だったものが能動になっていくその狭間というか。
本多:いろいろ不安もあって、大学4年の時に『ハガキ職人ナイト!』というイベントを企画しました。面白いハガキ職人の多くがそのままプロの放送作家としてやっていけないのはなぜだろうと思って。ハガキ職人でいられるうちに何か状況打破できればいいなと思って。
──やっていけないのはネタの問題ではないからまた話は別なんだろうけど。面白さがない人のほうがむしろ向いてるから。悪い意味ではなく。あのイベント、たしか俺も1回目に出させてもらった記憶があるよ。
本多:第1回は、渋谷のシアターDで土曜深夜に行ないましたね。南海キャンディーズの山里さんやオリラジの中田さんなど、豪華な方々にもご出演いただきました。それから場所を変えながら、何回かイベントは行なわれました。
──そのイベントを他の人に任せることになって、その後就職したの?
本多:思春期をずっと投稿に捧げていたので、もう投稿を「人生」にしようかと思っていた時期もありました。おそらく投稿に関わらない仕事についたらずっと地味で味気ないだろうなと思って。結局、バイトで入っていた出版関係の仕事で就職していくことになりました。ネタ投稿を生かした仕事を続けることはできなかったですが……。
──「投稿を生かす」イコール「放送作家」ではなく、投稿で培った考え方は何かを作る上では生かされるから、落ち込むことではないよ。今、本多君がやっている仕事にも充分役立っていると思う。
本多:今は教育系の編集プロダクションに勤めていますが、確かに投稿が生かされる場合があります。『うんこ漢字ドリル』の例文を教育的観点からチェックして、「さすがにこの『うんこ』はちょっと……」などと指摘する仕事もやりました。その本があんなに大ヒットするとは思いませんでしたが。
──そうそう、あのドリルに関わっているんだよね。それは凄いよ。偉そうに言うけどきちんとステップアップしてると思う。本多君の世代では最も立派になったはず。いろいろと懐かしかったから、今度『元ハガキ職人ナイト!』でもやろう! 荻窪の居酒屋で。