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終戦記念日の今日、元ちとせがライブ映像「語り継ぐこと -戦後80年、原爆の図 丸木美術館にて−」を公開

2025.08.15

「ワダツミの木」などのポップス、故郷・奄美大島の伝統民謡シマ唄とともに、自身のライフワークとして平和への思いを歌に託してきた、元ちとせ。
 
戦後80年を迎えたこの夏も平和をテーマにした活動に力を入れており、先日出演したNHKの特別番組『MUSIC GIFT 2025 〜あなたに贈ろう 希望の歌〜』では、広島の原爆で亡くなった少女の思いを歌った反戦歌「死んだ女の子」を、この曲をアレンジ・プロデュースした故・坂本龍一が生前遺したピアノ音源に乗せて歌唱し、大きな反響を呼んだ。

終戦記念日の今日、ライブ映像「語り継ぐこと –戦後80年、原爆の図 丸木美術館にて−」公開

「語り継ぐこと −戦後80年、原爆の図 丸木美術館にて−」_サムネイル.jpg

自身のYouTubeでも埼玉県東松山市にある原爆の図 丸木美術館で撮影したライブ映像を公開しており、「死んだ女の子」(8月6日公開)、「イムジン河」(8月8日公開)に続き、終戦記念日の今日8月15日には「語り継ぐこと」を公開した。
 
「語り継ぐこと」は2005年、出産のため約2年の活動休止からの復帰作としてリリースした6thシングル。
アレンジャーにスキマスイッチ・常田真太郎を迎えたこの曲は、テレビアニメーション『BLOOD+』エンディングテーマに起用され、今も人気の高い元ちとせの代表曲のひとつだ。
 
今回の映像ではギタリスト・新井“ラーメン”健のアコースティックギター一本での歌唱。《原爆の図》同様、画家 丸木位里・俊夫妻の共同制作による「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」「水俣の図」「水俣・原発・三里塚」の4作品が四方を囲む館内最大の展示室にて撮影された。
 
【忘れない、繰り返さない】──紛争や戦争がもたらす悲劇を、命の尊さを、平和であることのありがたさを、受け継いで手渡していく。戦争体験者から直接話を聞くのは私たち世代が最後になるように、戦争を知らない世代がその恐ろしさを忘れて同じ過ちを犯してしまわないように、平和のバトンを繋いでいくことは私たちの使命なのだ。
 
▼元ちとせ「語り継ぐこと –戦後80年、原爆の図 丸木美術館にて−」
 

▼元ちとせ「死んだ女の子 –戦後80年、原爆の図 丸木美術館にて−」
 

▼元ちとせ「イムジン河 − 戦後80年、原爆の図 丸木美術館にて −」
 

撮影協力:原爆の図 丸木美術館|https://marukigallery.jp/

New Digital Single「イムジン河」

今夏、新たに平和への願いを込めておくるのが、ザ・フォーク・クルセダーズのカバーなどで知られる名曲「イムジン河」。
 

イムジン河_配信JK.jpg

イムジン河(臨津江)は韓国と北朝鮮の国境近くを流れる実在の河川。歌詞の中では南北朝鮮分断の悲しみが歌われているが、国境・人種・宗教・思想の違いなど人と人を隔てるもの=《イムジン河》は朝鮮半島に限らず世界中どこにでも流れていて、今なお続く数々の争いの原因となっている。
しかし、故郷への思い、大切な人やものを守りたいという気持ちは人類共通の願いであるはずだ。「地上の境界線に縛られることなく、空を自由に行き来する水鳥に平和への思いを託す」というこの曲をきっかけに、当たり前の平和を守るためにどうしたらよいか、まずは自分の手が届く身近なことから考えてみたい。
 

スペシャルインタビュー 〜戦後80年によせて〜

元ちとせ最新アー写.jpg

戦後80年を迎え、改めて「なぜ平和への思いを歌い続けるのか」、この夏リリースした楽曲「イムジン河」についてなど、坂本龍一や元ちとせのプロデューサー・森川欣信とも親交の深いライター・ジャーナリスト、神舘和典のインタビューでお届けする。
 
 戦後60年に広島の原爆ドーム前で「死んだ女の子」の歌唱と配信リリース、戦後70年には平和をテーマにしたカバーアルバム『平和元年』のリリースと、20年に渡り平和への思いを歌に託してきた元ちとせ。戦後80年を迎える今夏、8月8日に「イムジン河」を配信リリースした。
 
 リリースに先立ち、インタビューが行なわれたのは、埼玉県東松山市にある「原爆の図 丸木美術館」。画家、丸木位里と丸木俊夫妻は、原爆投下直後の広島にかけつけて救援活動を行い、共同で連作「原爆の図」を描き続けた。その画が、緑に囲まれたこの美術館に展示されている。
 

「語り継ぐこと −戦後80年、原爆の図 丸木美術館にて−」_サムネイル.jpg

 そしてこの日、ここで「イムジン河」のミュージックビデオと戦後80年によせて「死んだ女の子」、「語り継ぐこと」のライブ映像の収録が行なわれていた。
 
 「服が飛ばされ、肌がただれ、差し伸べられた手を振り払い炎に飲み込まれていく母子が描かれた画を見て、心が苦しくなりました。この画の母親は子ども1人を残すよりも、ともに死ぬ選択をします。自分だったらどうしただろうか、同じ母親として考えずにはいられませんでした」
 
 全15部に及ぶ「原爆の図」の一つ、第二部『火』の前で、元は語った。
 
 韓国と北朝鮮の軍事境界線の近くを流れる河を歌った「イムジン河」は、1968年にザ・フォーク・クルセダーズがリリースした曲。イムジン河は朝鮮半島の南北分断の象徴。しかし、暗さを感じさせない。とうとうと流れる水や鳥の様子が美しい歌詞とメロディで展開する。
 元ちとせは1979年生まれ。太平洋戦争が終わって30年以上経て生まれた世代だ。そんな彼女が、なぜ、これほどまでに平和を祈り、次世代へ向けて歌い継ぐという思いにいたったのか──。
 それには、まず、彼女がデビュー直後に広島を訪れたことに大きなきっかけがあった。
 音楽のイベントに出演した彼女は、事務所のプロデューサーの導きで広島平和記念資料館を拝観した。
 
 「そこがどんな場所かも、何も知らないまま、まるで観光するような気持ちでついていきました」
 
 しかし、記念館で言葉を失う。被爆した子どもの写真、破壊された建物の写真、ボロボロになった服や三輪車……。そこにあるさまざまな展示物を前に、目を覆わずにいられなかった。
 
 「原爆が投下されて広島や長崎の空にきのこ雲が立ち上る映像は何度も見たことがありました。でも、あのときに地上でどんな惨劇が起きていたのか、同じ日本でそう遠くない過去にこんなことがあったことも知らずにもう大人になったと思っていた自分がとても恥ずかしかった。資料館から出て、いつまでも呆然と原爆ドームを眺めました」
 
 亡くなっていった人のことを祈り、これからの平和のため、自分にいったい何ができるだろう──。本気で考えた。
 
 そしてもうひとつ、元が平和を意識する理由には、彼女が鹿児島県の奄美大島出身であることがある。沖縄と同じように、奄美群島もかつて8年間アメリカの統治下にあった。
 
 「奄美では戦時中、多くの人が関西方面に避難していました。ところが広島と長崎に原爆が投下されて突然戦争が終わり、島を離れていた人たちは帰れなくなった。当時はパスポートがかんたんにとれる時代ではありません。手漕ぎの舟で故郷を目指して力尽き、家族との再会かなわず海に沈んだ人が何人もいたそうです」
 
 奄美大島の中心、名瀬市の市長だった泉芳朗らを中心に祖国復帰群民運動が行なわれた。日章旗を掲げてのデモや断食などの行動が実り、1952年に奄美は日本に復帰する。
 
 「島の中心から離れた瀬戸内町出身の私は、苦難の歴史をほとんど知ることなく育ちました。上の世代のかたがたの戦いの歩みを詳しく知ったのは復帰50年を迎えた2003年です。島の各地で記念行事が催され、すでにデビューしていた私も参加させていただく中で、平和のありがたさを強く意識しました。今の幸せはけっして当たり前のものではないことが身に沁みました。あのとき、島の歴史をみんなで考え直す機会を得て、絆が強くなったことを感じました」
 
 「私は政治家ではありません。思想家でもありません。それでも、なにかできるはず。歌うことによって、多くの人が平和を考えるきっかけはつくれるかもしれない」
 
 そう考えた。それまで、元にとっての歌とはただ自分が歌って楽しい、聴いた人が喜んでくれるというものだった。でも、それだけではなく、歌うからには何かを伝えられる歌い手にならなければという意識も芽生えた。平和への思いを歌うというライフワークがスタートした。
 その延長に、戦後80年を迎えるこの夏の「イムジン河」のリリースと「死んだ女の子」など平和をテーマにした楽曲の映像公開がある。
 
 「平和をテーマにした楽曲を歌う時、カバー曲を選んだことには理由があります。戦争を体験していない歌い手の新曲よりも、戦争を身近に体験した人の強い思いが込められた曲のほうが、聴く人の心に響くと思いました。私は歌唱で作品に息吹を与えたい」
 

イムジン河_配信JK.jpg

 「イムジン河」はもともと北朝鮮の詩人が歌詞を書き、松山猛が日本語に訳した。編曲は加藤和彦。
 
 「原曲は朝鮮半島が舞台ですが、朝鮮半島に限らず、大小を問わず、様々な理由で自分の意思とは関係なく分け隔てられてしまうことはどこにでもあります。それでも、故郷を大切に思う気持ち、大切なものや人を守りたい気持ちは、みんな同じだと思うんです。そういうことを心に置いて、人々が豊かな気持ちでいられたらいいな、という思いも込めています」
 

「死んだ女の子−戦後80年、原爆の図 丸木美術館にて−」_サムネイル.jpg

 一方「死んだ女の子」は、デビュー前にも一度プロデューサーから歌唱を提案されていた。
 
 「そのときは自分が歌うイメージが持てませんでした。タイトルも歌詞も怖くて。私の様子を見て、プロデューサーも歌わせることをあきらめました。でも平和記念資料館を訪れ、意識は変わりました。気持ちを込めて歌えると感じたからです」
 
 作詞は終戦直後の日本を訪れたトルコの詩人、ナジム・ヒクメット。作曲は外山雄三。過去には高石友也らが歌っているが、元の歌唱に際して、平和を積極的に展開していた坂本龍一にプロデュースを依頼することに。坂本は快諾し、レコーディングは坂本の住むニューヨークで行なわれた。
 
 「ストリングスには、あらゆる国の、あらゆる肌の色の演奏家が集まりました。録音を始める前、メンバーたちを前に、坂本さんは『死んだ女の子』の歌詞の内容、広島に投下された原爆で命を失った7歳の女の子の歌であること、原爆を落とした側のアメリカの地で録音する意義を英語で説明してくれました。あのとき、スタジオの空気が変わって、演奏家たちの集中度は一気に高まった。特別な録音になりました」
 
 元と坂本はその後も「死んだ女の子」のパフォーマンスを行なっている。
 
 「最初は、筑紫哲也さんがMCの時代のTBS『News23』です。生放送で8月6日に日付が変わった時に、この曲の舞台である広島の原爆ドームの前で、坂本さんとパフォーマンスしました。その翌日のROCK IN JAPAN FESTIVALでは、坂本さんのステージに呼んでいただきました。茨城県のひたちなか海浜公園行なわれる夏フェスです。坂本さんがピアノでイントロを弾くと、熱狂していたフェスの会場が静寂に包まれました。作品の持つ力を思い知らされる体験でした」
 
 元は子どもたちにも平和の大切さを伝えようとしている。
 
 「時々、暮らしている奄美大島の小中学校にシマ唄(奄美民謡)を歌いに行く機会があって、その時に『死んだ女の子』を歌うこともあります。『死んだ女の子』は力のある作品です。子どもたちはしっかり記憶してくれるはず。大人になってからでも、思い出してほしい。平和を願うきっかけにしてほしい。実際に私が歌うシマ唄に興味を持ち、自分でも歌うようになる子もいます。そうやって、次世代、次々世代へと平和と文化の大切さを歌い継ぎ、語り継いでいってほしい」
 
 こうした平和のループを作るのが、自分の使命だと信じている。
 
 「私には娘と息子、二人の子どもがいます。彼らには私亡き後も幸せでいてほしい。でも、社会が平和でなければ、うちの子たちも幸せでいることはできません。自分だけが幸せを感じても、それは本物の幸せではありませんから。そのためにもずっと私は歌い続けます」
 
──聞き手・文:神舘和典

商品情報

イムジン河

2025年8月8日(金)配信リリース
作詞:朴 世永 訳詞:松山 猛 作曲:高 宗漢 編曲:加藤和彦 / 佐藤洋介
©2016 WATANABE MUSIC PUBLISHING CO., LTD.

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