1990年代前半の東京アンダーグラウンド・ロックを象徴するバンドJAZZY UPPER CUT。バンドが残した2枚のアルバムが長い廃盤期間を経てようやく復刻される。ギターの川田良(THE FOOLS, JUNGLE'S)やターンテーブルのDJ KRUSHをはじめ凄腕ミュージシャン11名が集まり、ROCK、JAZZ、FUNK、HIP HOPを偶発的に融合させた彼らの音楽は、後に勃興するミクスチャーロックの先駆けでもあったが、混沌とした90年代の社会の実相と対峙したVo. 桑原延享(DEEPCOUNT, JUNGLE'S)の痛切な歌詞は80年代のパンク精神をさらに昇華させたメッセージでもあった。今回再発される2枚のアルバムは暗黒大陸じゃがたら(JAGATARA)の『南蛮渡来』やTHE FOOLSの『WEED WAR』と並ぶ重要作品であり、この復刻によって日本のアンダーグラウンドシーンのヒストリーがより明瞭に浮かび上がるだろう。4月7日には新宿ロフトで発売記念ライブも行われるJAZZY UPPER CUTの桑原延享(通称ノブ)に話を伺った。(TEXT:加藤梅造/LOFT PROJECT)
「おい、誰も歌わねぇのか!」「じゃあ俺が歌う」ってステージに突然上がった
──JAZZY UPPER CUTはノブさんがJUNGLE’S(Vo. 桑原延享/ Gt.川田良)解散後に始めたバンドですが、どういう経緯で結成されたんですか?
桑原延享(以下ノブ) JUNGLE’S解散後、自分に子供が生まれたりして音楽活動から離れていた時期が長かった。それが1990年に江戸アケミ(JAGATARAのVo.)が亡くなり、日比谷野外音楽堂で追悼コンサートが開かれた(1990.4.14)。そこに出ないかと誘われたんです。出るかどうかすごく迷ったんだけど、アケミの追悼としてマイクの前に立ちたいという気持ちも強かった。それで近所の石渡明廣(Gt.)を訪ねた。彼もアケミと交流があったから是非やろうと。そこに早川岳晴(Ba.)と角田犬(Dr.)が合流して4人で日比谷野音に出たのが最初です。バンドの名前もなかったんだけど、それを見た川田良がTHE FOOLSと対バンしようと言ってくれて、それで「JAZZY UPPER CUT from Cosmon」という名前を付けて始まった。
──川田良さんはまだメンバーではなかったんですね。
ノブ そう。JAZZYを何回かやってるうちに良が「俺も入れてくれ」って言ってきた(笑)
──JUNGLE’Sの時は良さんが作ったバンドに後からノブさんが加入したけど、JAZZY UPPER CUTでは逆だったんですね。もともとノブさんは音楽ではなく、「大駱駝艦」(麿赤兒率いる舞踏グループ)で舞踏をやっていたそうですが、どういういきさつでJUNGLE’Sに入ったんですか?
ノブ 俺が大駱駝艦を辞めた理由は、要するにバンドがやりたくなったから。まだ大駱駝艦にいた頃、屋根裏や新宿ロフトでやってたJAGATARAのライブによく行ってたんです。確か屋根裏でJAGATARAとFOOLSが対バンした時だと思うけど、伊藤耕(FOOLSのVo.)がライブの前に銭湯に行っちゃって帰って来ない。それで(当時まだFOOLSのメンバーではなかった)良とマーチンが「じゃあ俺らが演奏するか」って突然やり出したんです。マーチンが客席に向かって「おい、誰も歌わねぇのか!」って煽ったから、「じゃあ俺が歌う」ってステージに突然上がって飛び入りで歌ったんだよね。その日はそれで終わりだったんだけど、その後、法政大学学生会館でJUNGLE’SとかJAGATARAが出るライブに遊びに行った時、楽屋で良が俺をみつけて「お前、あの時歌った奴だよな。いまボーカル探してるんだけど、お前入らないか」って誘われた。それで早速その日のJUNGLE’Sのステージで歌ったのが最初だね。
(※この時のライブは後に『LIVE BOOTLEG』としてCD化されている)
──話を戻しますが、アケミさんの追悼コンサートの時にJUNGLE’S以来久しぶりに歌ってまたバンドをやりたくなったんですか?
ノブ 俺としては一回限りだと思ってたんだけど、たぶん良のほうは俺がまたバンドでやったことが嬉しかったんじゃないかな。あと俺がその時に集めたメンバーに良は興味があったと思う。良はJUNGLE’S時代に一度、石渡をバンドに誘ったことがあって、それは実現しなかったんだけど、良も石渡もめずらしくお互いをリスペクトしていた。結果的に、良がJAZZYに入る形で、JUNGLE’Sでできなかった石渡とのツインギターが実現することになったんだよ。
DJ KRUSHは従来の楽器とは違う角度で演奏できるプレイヤーだった
── 1991年1月26日の<江戸アケミ一周忌コンサート>でJAZZY UPPER CUTの活動が本格的に始まったわけですが、いまあらためてJAZZYの音源を聴くと、その後にロックとHIP HOPが融合して生まれたミクスチャーの先取りみたいなことを既にやってたんですね。
ノブ 90年の野音の時はミクスチャーという考えは全然なかった。その後、JAZZYとして続けることになり、HIP HOPはすでに台頭していたけど、俺としてはライミングを上手くやるというよりは、メロディから外れた所で言いたいことを物語みたいに歌いたいという思いがあった。それでHIP HOPやダンスホールレゲエばっかり聴くようになって、そんな中でDJ KRUSHと知り合った。
──当時、HIP HOPとロックの交流はあまりなかったと思うんですが、どういう経緯で知り合ったんですか?
ノブ それもやっぱりアケミがきっかけなんだけど、アケミが亡くなった後、彼のアパートにいろいろな人が集まったんです。そこに浅野典子という女優とかいろいろやってる人が来ていて、『闇のカーニバル』(※山本政志監督の映画。ノブが主演している)の話なんかをしたのかな。それで仲よくなって、いつだったか忘れたけど、俺がHIP HOPに興味があるって言ったら、当時彼女は「KRUSH POSSE」というDJ KRUSHやMUROがやってたグループをプロデュースしていて、じゃあ観に来なよって。それでKRUSH POSSEのライブに行ったんです。それを見て、DJ KRUSHのやってることは凄いと思った。例えば楽曲を一瞬でブレイクして一気に再生するダイナミックさ。それをバンドで演奏するのは決めごとが多くなり失敗もおきる。DJなら一人でコントロールできるんだ、と理解した。それと、まるでパーカッションを演奏しているようなライブ感を感じたんだ。彼をバンドに誘ったのは、従来の楽器とは違う角度で演奏できるプレイヤーだと思ったから。俺は今でもDJ KRUSHほど生のバンドと一緒に演奏できるDJはいないと思うけど、最初にスタジオで合わせた時も、完璧にバンドと一体となったプレイをしてくれた。最初はDJというものに半信半疑だったメンバーも、セッション後は「こいつは凄い!」と認めざるを得なかった。
──ロックバンドにDJがメンバーとして入るのはおそらく日本で初めてだったんじゃないでしょうか。
ノブ 当時は他にいなかったと思う。ただ、俺としては自分の身近にいる表現者たちとやりたいことをやろうという感じだったんで、そこにパンクとかジャズとかHIP HOPとかレゲエとかいう括りはなかった。
──ノブさんはJAZZYについて「音楽スタイルは、今思えば、”勝手にしやがれ”だった。喋るような感じで言葉を音楽に乗せたい。という自分の希望をメンバーが一人一人の解釈で自分のスタイルで応えてくれた」と語ってますが、明確なビジョンがあったんですか?
ノブ 自分のやりたいことははっきりしてたけど、それを強制することはできないから、試行錯誤しながらやっていった感じかな。人間と一緒にできあがっていくものを大切にした方がいいなと。例えば一人でDJと組んでやればもっときっちりしたものが構築できるのかもしれないけど、いま集まっている人間でやれる音楽をやっていこうという感じだった。
──集まった人の個性がそのままバンドの音楽スタイルになるというやり方はJAGATARAと近いですね。
ノブ 初期のJAGATARAのライブでは俺もよく乱入してたけど、そういうアケミの間口の広さを最初に見たからこそ自分は音楽の世界に飛び込んだんだと思う。アケミの凄さは、誰かが乱入してもそれで彼のパフォーマンスが揺らぐことはなく、逆に自分の背景にしてしまうぐらい表現の強さがあった。
──発する言葉の強さも大きかったと思います。JAZZYについて言うと、ラップというスタイルを得てノブさんの言いたいことがより先鋭化して届いたんじゃないかと。言いたいことは全部言ってやるみたいな。
ノブ 当時、自分の年齢で子供を持った人はあまりいなかったんだけど、バンドを一度離れて生活した中で、なんか自分には他の人には歌えない視点があるなという妙な自信があった。だから若気の至りもあったと思うけど、今までみんながやりたくてもやれなかったことを全部やってやるという気概はありましたね。
──そこにラップというスタイルがはまったんでしょうね。
ノブ ラップというスタイルは自分にとっても勉強になった。ただライミングとかはあまり意識してなかったし、リズム的にもすごく稚拙だったから、いまあれをHIP HOPのラップとは思ってない。もし自分がラッパーだとしたらパンクのラッパーなんだろうな。言ってしまえば、伊藤耕や山口冨士夫や江戸アケミの歌の強さにどこかで自分は敵わないと思ったから一度音楽から離れたけど、もう一度やるなら、彼らが掘った井戸の水を飲むんじゃなくて、自分で井戸を掘るべきだと。HIP HOP的なラップではないけど、JAZZYで始めたこのスタイルは、いまのDEEPCOUNTにもつながる自分のオリジナルになっていると思う。そこにはHIP HOPのスタイルもあるし、JAZZの匂いもあるし、パンクな部分もあるんだけど、ライブを観た人の中には踊りを感じる人もいる。いろんなものが混じってるんだけど俺の中では1つのもので、間口は広くないかもしれないけど、いろいろな角度で発信できていると思う。