2022年は日本武道館 初出演という"最遅"記録の金字塔を成し遂げ、31年ぶりに日比谷野外大音楽堂にてワンマンライブを敢行したニューロティカが、2023年1月から毎月第2水曜日に10カ月連続ツーマンシリーズ『ビッグ・ウェンズデー』をホームグラウンドである新宿LOFTで開催する。その記念すべき初回ゲストとして出演するのが、1998年にメンバー刷新となったニューロティカにとって大の恩人というべきPOTSHOTだ。『絶対絶命のピンチ!!』、『スイカマン』、『穴をふさげ!』というニューロティカ第二の黄金期と呼べる時期の3作品はいずれもPOTSHOTのフロントマン・RYOJI主宰の〈TV-FREAK RECORDS〉から発表されたもの。スカパンク・ムーブメントの先駆者として破竹の勢いだったPOTSHOTと〈TV-FREAK RECORDS〉による援護が、当時絶対絶命のピンチにあったニューロティカが息を吹き返す大きな要因となったことは論を俟たない。ニューロティカのイノウエアツシ、POTSHOTのRYOJIに、両バンドの四半世紀に及ぶ交流や新宿LOFTで巻き起こったあれこれについて縦横無尽に語ってもらった。(interview:椎名宗之)
POTSHOTのライブを観て、この世界へ飛び込んでいかなきゃ! と思った
──お二人がバンドマンとして盟友関係にあり、RYOJIさんが主宰する〈TV-FREAK RECORDS〉のレーベルメイトだったことは周知の事実ですが、わが新宿LOFTの歌舞伎町移転直後の柿落とし公演(1999年4月29日)で共演していただいたことを思い出しました。
RYOJI:そうでしたね。1週間の柿落とし公演の中の一つとして出させてもらって。
アツシ:あれは僕らのCD(『絶対絶命のピンチ!!』)を出す前?
RYOJI:前ですね。もうCDを出すのが決まっていた頃だったのかな?
北島(TV-FREAKの流通会社UK.PROJECT):いや、まだ決まってなかった。CDを出してほしいと、あっちゃんが押しかけてきたのはその後。最初はあっちゃんが、JUN SKY WALKER(S)の小林(雅之)くんにPOTSHOTのライブを観に来ないかと誘われたんですよね。
アツシ:そう、まーちゃんに「新しくバンドに入ったから観に来てよ」と言われて。それでON AIR WEST(現・Shibuya O-WEST)へ観に行ったらとんでもない世界が繰り広げられていて…。確か小島も出てたのかな。これは今すぐにでもこの世界へ飛び込んでいかなきゃ! と思ったね。バンド・ブームを潰した後はスカパンク・ブームを潰すか!? と意気込んだ(笑)。
──前提としてまずニューロティカとジュンスカの関係性があったわけですね。
RYOJI:コバさんには最初ツアーサポートで叩いてもらっていたんですけど、面白かったらしくて、できればこのまま続けたい! と言ってくれまして(小林雅之は1998年4月にサポート参加、同年6月に正式加入)。だけど当時は事務所にも所属してなかったし、全部自分たちで動いていた時期だったんです。CDはUKPから出せていたけど、リハもまだ割り勘でやっていた頃で。そんな感じですけどいいですか? とコバさんに訊いたら、それでもいいからぜひやりたいと言ってくれて。コバさんとしてはこちらと仲良くなろうってことで、たとえば「ニューロティカのライブに一緒に行く?」「○○と飲みに行くけど一緒に行く?」とかいろいろ誘ってくれて、その流れで僕もJACKieさんが最後の頃のニューロティカを観たんです(JACKieは1998年10月脱退)。あっちゃんが僕らを見てくれたのと、僕が新しいニューロティカを見たのは同じくらいの時期だったと思います。まだそんなに馴染みもないのにライブの打ち上げに連れて行かれて…あの頃のニューロティカの打ち上げって凄かったんですよ。居酒屋の広い座敷に100人くらいいて。しかもあっちゃんが気を利かせてくれて、僕をメンバーのそばに座らせるんです。そういう場でJACKieさんと初めて会ったとき、「会ったことあるよね? 夢の中で」といつものキメ台詞を言われたんです(笑)。
──リスナーとして聴いていたニューロティカのあっちゃんと、ギャップはありましたか。
RYOJI:イメージ通りでしたね。打ち上げは賑やかで楽しくて。ハードコア・パンク全盛の時代に日本のパンクに楽しさを導入したパイオニアですからね(笑)。僕自身、世代的にバンドブームの時代の音楽は大好きだったんですけど、その後、少し大人になってきて、USインディーズ・シーンとかも聴いてたので、メジャーのレコード会社の関わり方を含め、あの終わり方は格好悪いなと正直思っていたんです。また、たまたまアメリカのインディーズ・レーベルのASIANMAN RECORDSにデモテープを送ったことでラッキーにCDデビューできたこともあって、上の世代とはまた違うことをやりたいし、僕らの世代で楽しくやりたいと考えてレーベルを始めてた頃で。ジュンスカも解散していたし、ニューロティカはレコード会社との契約がなくなって主要メンバーも抜けていって、世間的にはドン底の時期なはずなんですけど、新メンバーを迎えてバンド活動を続けていく強い意志を感じたので凄いなと思いました。
──ニューロティカとPOTSHOTによる歌舞伎町LOFTの柿落としライブは、POTSHOTのお客さんが9割でニューロティカのお客さんが1割だったそうですね。それなのにRYOJIさんがギャラを折半にしたという有名な話がありますが。
アツシ:そうそう。本当にこんなにもらっていいの〜?! ってビックリして。そのおかげで僕らは機材車を買えて、ツアーを回れることになったんです。
RYOJI:ツーマンの冠でやるなら五分に分けるのが筋だと思うので。
アツシ:その柿落としのライブは覚えてるよ。僕らが出たとき、ヘンな奴らが来たぞというフロアの微妙な空気をビンビンに感じたので(笑)。
RYOJI:僕も覚えてます。WネームのTシャツを配ったライブですよね。あと覚えてるのはダイブが凄くて、アンコール最後の曲でケガ人が続出したんです。そのライブを機に、歌舞伎町LOFTはダイブ禁止をちゃんとアナウンスするようになったと聞きました。「今日はちょっとダイブが酷かったな」と終演後にシゲさん(ロフトプロジェクト前代表、故・小林茂明)に言われた記憶があります。
アツシ:そうだ、ケガ人がけっこう出たよね。その後、ARBのライブで僕が最初にダイブしたんだけど(笑)。それでまたLOFTでダイブが始まった(笑)。
──歌舞伎町LOFTでの共演後、あっちゃんがデモテープを持ってRYOJIさんにリリースをお願いしたわけですね。
RYOJI:そうですね。シズヲさんが加入したので、良かったらどうかな? みたいな感じで。あのデモはJACKieさん時代の曲ですか?
アツシ:違います。カタルを中心にメンバーが頑張って新曲を作ってくれて、JACKieがいた時期の曲は一切やってなかったから。