Genius P.J'sのトラックメーカー・クロダセイイチが、業界の第一線で活躍をしてきた先輩たちと対談をする連続企画。クロダが影響を受けた作品やコロナ禍での表現方法についてそれぞれの視点をうかがい、各シーンの若い世代に自分たちができることはなにかを考えていく。第二回目はロフトプロジェクト席亭の平野悠が登場。(photo:村上大輔/構成:成宮アイコ)
対談前に - クロダセイイチコメント
一店舗目の千歳烏山ロフトオープンから50周年を迎えたLOFT。そのLOFTを作った平野悠氏と対談をする機会をもらった。
10代後半に上京し、毎月欠かさず読んでいたLOFTのフリーペーパー「Rooftop」で連載していた平野氏のコラム「おじさんの眼」のファンであったが、実際にはどのような方か分からずにいた。この対談を前に平野氏著の『ライブハウス「ロフト」青春記』を読み返した。山下洋輔、坂本龍一、山下達郎、鈴木慶一、矢野顕子、忌野清志郎、サザンオールスターズ……読めば読むほど関連するアーティストの凄さに今回の対談が怖くなってくるのを感じていた。しかし始まってみると、とても楽しい対談で1時間があっという間。気づくと予定時間をゆうに越えていた。
今回の対談は平野氏がLOFTを続けていく中で起こったいろいろな出来事への感情や、私と平野氏が共通に持つ悩みについて気持ちをぶつけてみた。対談を終えて感じたのは、平野氏の持つ懐の深さだった。是非最後までご覧下さい。
天下を取りたかったけど、一軒の店を守ることにもうらやましさがある
クロダ:実は、平野さんが週1回配信していたClubhouseのリスナーでした。ライブハウス「ロフト」の歴史はもともといろいろなところで目にはしていましたが、そのときどきにどういう思いで制作をしてきたか、という平野さんご自身のお話しがとてもおもしろくて。音楽関係者でも聞きたい方がたくさんいると思ったので、今回、対談をお願いさせてもらいました。
平野:Clubhouseを聞いてくれてたの?俺自身もなんでライブハウスを作っちゃったのかよくわからないんだよな(笑)。50年前にはライブハウスなんて日本に一軒もなかったから、ジャズ喫茶「烏山ロフト」の常連が、「今、ライブができる場所を作ったら天下取れるよ!」なんて言うから乗せられて、「おもしろそうじゃん!」って思っちゃったんですよ。俺は天下を取りたかったから(笑)。「烏山ロフト」はジャズ喫茶なんて看板を出してたけど、お店のレコードが50枚しかなくて、あまりにも少ないからお客さんがいろいろレコードを持ってきてくれてそのなかでロックを知ったんだよ。それではっぴいえんどにハマって、これからの時代は日本語ロックだろって思ってたからちょうどタイミングも良かったんだろうな。
クロダ:本にはお店のレコードは300枚って書いてあったんですけど、枚数を盛ってたんですか(笑)?
平野:そうだよ、本当は50枚しかなかったんだよ(笑)。それでも平気な顔してジャズ喫茶って名乗ってるんだから、そりゃお客さんも怒るよね。だけど、「あなたの好きな作品を教えてください、次までに勉強しておきます」ってひとりひとりとコミュニケーションをとってさ、それでだんだん人が遊びに来てくれるようになったの。顔と顔を合わせてコミュニケーションをとる時代だったんですよね。お客さんからいろんな音楽を教えてもらっているうちに、日本のフォークもおもしろいなと思ったんだけど、どこに行ったら見られるんだと思ったらどこにもないんだよな。
クロダ:当時のフォークミュージシャンって、どこでライブをしてたんですか?
平野:自分たちのコミュニティだけだったね。一方ではメジャーフォークも流行っていたけれど、そこから外れた人は手弁当で自分たちでどこでも行くしかなかったんだよ。だから、「じゃあ俺がライブができる場所を作るか」って思ったんですよ。マイクスタンドの立て方もわからなかったのに。
クロダ:50枚のレコードでジャズ喫茶をオープンするとか、マイクスタンドの立て方がわからないけどライブハウスを作るとか、平野さんが突き進むときにサポートする人がまわりに必ずいるっていうのもすごいですよね。
平野:とにかく常連に助けられたね。ただ、それは日常での地盤があったからかな。普段からみんなと政治問題・学校・音楽とかいろんなことを話していると、だんだん人が集まってくるんだよ。その人たちに、「今はなにがおもしろいの?」って聞いて、じゃあその人を呼ぼうかって盛り上がるのが楽しかったですね。でも、そこが原則ですよ。
クロダ:ピュアなあり方ですよね。
平野:でも、当時はライブなんてとにかく人が入らなかったし儲らなかったから、ライブは週末しかやってなくて。平日に始発までやっていたロック喫茶が儲かったんですよ。体力的には大変だったけど、自分の店だからなんでもやりますよ。そうやってライブを続けていたら、深夜放送に取り上げられ始めたわけ。それがおいしかった(笑)。「ロフト」からの中継や録音が放送されると、「ロフト」のライブに直接来る人が増えてきたんだよ。
クロダ:俺は茨城県出身なんですけど、上京前はネットもなかったから紙媒体で東京の音楽情報を収集していました。でも紙だと音がわからないから、深夜テレビのコアな音楽情報はとても重要でした。20年前に東京に出てきて、「ロフト」の名前はもともと知っていて憧れのアーティストもたくさん出演していたので自分のなかで敷居が高かったですね。これだけ長い間、続けられたのってなぜですか?
平野:ライブハウスがあることによって、いつも新しい音楽を知ることができたからかな。僕らがやっていることって、20人から多くても500人くらいの人数しか集められない。でもそれで十分。僕らが支持する音楽を、腰を据えて聴けたし、この場所から新しいものが生まれるんだっていう信念を持ち続けてきたから。「ロフト」がなぜ50年も続いたかっていうと、楽屋もない時代からミュージシャンと一緒に手作りでライブを作り続けてきたし、ライブ後のセッションからバンドが作られていくのを見てきたし、客が数人しか入らなかった時期を一緒に越えてえてきたっていう自負があるからかもしれないな。
クロダ:自分もミュージシャンなので、コロナ禍でライブハウスがどんどん閉店していくなかで箱を維持してくれるっていうのはとてもありがたくて嬉しいです。ただ、今の「新宿ロフト」くらいの規模になってしまうと、当時の平野さんのスタイルはなかなか難しくなってきませんか?
平野:難しいよ、できないもん。「ロフト」は大きくなりすぎたの。俺がずっと憧れているのは高円寺の「JIROKICHI」。ずっと一軒のままで、店長が照明や受付もやったりしながら続けてたの。そうやってミュージシャンとちゃんとコミュニケーションをとっているから、演者からの信頼も厚い。顔を合わせることをちゃんと重要視している。うらやましいよ、俺は。
クロダ:これだけライブハウスを大きくしても、やっぱりうらやましいと思うんですね。
平野:そりゃ、うらやましいよ! 出演者との信頼関係があって、一軒の店をずっと守り続けてるんだから。でも、俺はやっぱり天下を取りたかったんだよな……一時期は「新宿ロフト」に出なくちゃロッカーじゃないって言われた時代もあったし、たしかに天下を取ったけれどさ。でもうらやましいんだから、矛盾してるよな(笑)。その落とし所としてトークライブハウスを作ったっていうのは大きかったかな。ミュージシャンとか知識人に出てもらって音楽ライブではなくてトークをするっていうのは、俺だからできたんだってちょっと思っていますよ。ライブハウスはさ、やっぱり演者とコツコツ仲良くなり続けていくしかないんだよ。この人はどんなことを話して、どんな人と組み合わせたらおもしろいかをイメージできないとブッキングはできないし。ただ有名な人に出てもらえばいいってわけじゃない。
クロダ:今はタブーが多くて、これを言ったらまずいっていう制限が多すぎる気はしています。タブーのなかにこそおもしろいことが含まれているのに。そういった意味では「ロフトプラスワン」と同じくらい、平野さんのClubhouseはリスナーとしてハラハラしておもしろかったです。各店舗の家賃を言っちゃって、社員の人が慌てる様子とか(笑)。
平野:あはは(笑)。Clubhouseは全部消えちゃいますからね、なんだって言えますよ。でもさ、なんでビクつかなくちゃいけないんだって思うんだよ。「これは書かないで」なんて前置きをしてトークをするのはやっぱりつまんないんだよな。とにかく「新宿ロフト」を作る前まではロックで飯が食えるかって感じだったし、客より演奏者のほうが多いなんて日もたくさんあった。そもそも日本にライブハウスなんてなかったんだから、オープンしてからも、なにそれ?って思われるし、有名人が最初から出てくれるわけもない。とにかく、ロック居酒屋で儲けることができたからいろんな構想が膨らんだんですよ。
クロダ:日本で初めての場所を作ったんですもんね。運営していくうえでのジレンマってありましたか。
平野:うーん、僕たちにとっていちばんおいしいのは中途半端に売れる人ですね(笑)。だって売れたらいなくなっちゃうんだから、売れたら困るんだよ。ライブハウスは満員にするけど、ホールには移動しないバンドはずっと出演してくれますから、ライブハウスの宝は売れすぎない人!(笑)