故郷を追われ、名前を変えさせられ、子どもを産む権利をも奪われたハンセン病の元患者の夫婦の物語・映画『凱歌(がいか)』が2020年11月28日(土)よりシアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)にて公開される。
今回は、映画の主人公・山内きみ江さんに単独インタビューをさせていただいた。
「萎えし手に 握手した 可愛い手 大きい幸せを つかんで欲しい」これはきみ江さんが詠んだ五行歌だ。自分より環境が恵まれている人を羨み、やがてそれが憎しみの感情となり、「他人が楽をするのは許せない」と思ってしまう人も多い昨今、卑劣な環境でいわれのない差別をされ、たくさん苦労されたきみ江さんが、「大きい幸せをつかんでほしい」と他人に思ってあげられるのはなぜなのか。また、同じつらさを抱えた者同士が、死に向かわずに強く生きる道を選びつづけた理由とは。
「映画を見た人の感想が聞きたいの」と話すきみ江さんに、過去の体験にプラスして心の動きについてもお話しを伺った。(interview:成宮アイコ)
今、引き受けておかなかったらきっと後悔する
──このような社会状況の中で取材を受けてくださること、とてもありがたく思います。
山内:びっくりしなかった? こんな醜い顔で。でもね、どうしても他に語り部がいないものだから。わたしは、あちこちでハンセン病の語り部をやらせていただいています、山内きみ江です。よろしくお願いします。
──最初に、坂口監督から映画撮影のお話しをもちかけられたとき、きみ江さんはどのように思われましたか? ためらいなどはなかったのでしょうか。
山内:ハンセン病が歴史に残るならば協力したい、って思ったの。今、引き受けておかなかったらきっと後悔するんじゃないかなって。患者のみなさんは自分の顔を見せるのを嫌がるでしょう? ならば、わたし自身が犠牲的精神でやらせてもらおうかしら、と(笑)。わたしはカメラに対してはなんの抵抗もないんですよ。前にNHKに出たときは、子どもたちも喜んでくれて(※山内さんは養子縁組をした娘さんとそのお孫さんがいます)、孫たちも、「ばぁばのおかげで超有名人になっちゃった!」って喜んでいました。
──素敵なご家族! おばあちゃんが家族のヒーローなんですね。
山内:ハンセン病でこんな不自由な体のおばあちゃんがいて、学校でいじめられるんじゃないかって心配していたんだけど、「ばぁばの悪口を言うような大人はロクな大人じゃない」って(笑)。昨日も会いに来てくれたんですよ。
──きみ江さんご自身が語り部となって、過去や記憶を語り続けることはつらいこともあったかと思うのですが。
山内:変えられる病気ではないし、持って生まれたものならばそれを逆手にとって活かしていこうって思っているんですよ。
──そう思われるまで、葛藤もありましたか。
山内:それはもう、ありましたありました。醜い顔で言葉もうまく出ないから聞き取りにくいでしょう? だから、聞きとれなかったら質問をしてもらえればいいって最初から言っておくの。「なんでも聞き返してください」って。そうして、取材に来てくれる方がわたしを成長させてくれた部分は大きいですよ。…でもね、抵抗がなかったかって言えば嘘かもしれない。わたしは教養もまったくないし、劣等感の塊ですから。だけど、卑下してどうなるものでもないし、同じ人間であるならば優秀な方もいれば劣等感がある方もいるし、これは開き直りです(笑)。
──取材する側が言うことではないですけど、メディアに出るということは、必ずしもいいことばかりではないですもんね…。
山内:そうなの。特にわたしの身内がね、つらいことが多かったみたい。多くの人が見ているのによく恥ずかしがらずに出られたねって言われたことはあった。だけどね、本を出版したときの記念会で多くの人と接しているところを見て、「田舎者のハンセン病のおばあさんでも、東京のど真ん中でこんなに多くの人と話すことができるなんて、すごいね」って言ってくれたの。やっぱり、どこかでわたしたちは、"田舎生まれのハンセン病患者とその家族"っていう劣等感があるから、そういった自分たち自身の気持ちも変えていかないといけないって思ったんです。
ここに来てもいいことはないから、このまま帰りなさい
──療養所へ来て、自殺を選ばざるをえなかったご友人をたくさん見たそうですが、映画でおっしゃられていたように、「でも、自分はぜったい自分で死なない」と決心するまでのことを教えていただけますか?
山内:後追いをしてみんなが生き返ればいいけれど、それで死んだとしても、みんなも自分も死んでしまうだけなの。死んでハンセン病がなおるわけでないし、ハンセン病との縁が切れるわけではないし。自分はこういう業を持って生まれてしまったのだから、それを背負って命をまっとうして死んで、そのときにはじめて業が切れるんじゃないかって思っています。
──それまでは、「業を背負っても自分の人生を生きる」という気持ちをずっと持たれているのですね。
山内:そう、それまでは生きますよ。わたしは7歳のときに、皮膚に白い反応が出て痛くもかゆくもないというハンセン病の症状が出はじめたのだけど、そのころのお医者さんはハンセン病って見抜けなかったの。どんどん戦争(※第二次世界大戦)が激しくなるうちに、神経がやられて、両方の手が曲がっちゃって、火傷をしてもわからないし、釘を踏んでもわからなくなって。
──ケガをしても気づかないっていうのは命を落とす危険性があるということですよね。しかも戦時中に…。
山内:もうー、それは大変なんてもんじゃなかった! でも、お医者さんには小児リュウマチって言われていて…。6年生の4月に終戦をむかえて、「勝つまでは」って頑張ってきたけれど、戦争にも負けたし、もう学校に行ってもしかたないから、不自由な体のまま家族のお世話になって自分のできることをやって生きようと思ってました。22歳のときに、仲の良かった兄嫁が、「きみ江さんは"らい病"(ハンセン病のかつての呼び方)だ」と噂を耳にしてきたの。それでこっそり、「今日はわたしと一緒に遊びに行こう」って声をかけてくれたから一緒に出かけたら、「きみ江さんは今、リュウマチの治療をしているけれど、人の噂であなたは"らい病"だって言われているから、専門医のところへ行こう」って専門病院へ連れていってくれたの。そして菌検査をした結果を見て先生が、「これまでずっと不自由で、つらかっただろう…」って。そのときにはもう、神経を病んで、手も両方曲がって、ももから下も、首から上も、肩から先も、全く感覚がなかったですから。
──7歳で症状が出てから、22歳でやっと病名を知ることができたんですね。
山内:でもね、「不自由でつらかっただろう」と言われるまでそういう感覚がなかったの。みんながどれだけ完全なのか、わたしはわからないから。だって、子どものころからずっとこの体だから。先生は、「もう体は無菌の状態になっているし、ご家族も理解してくれているからあなたはこのまま家で暮らしなさい」って言ってくれたんだけど、わたしは、「ハンセン病っていう名前がついたからには療養所に行きます」って言ったの。
──療養所で暮らすことは、きみ江さんご自身が決められたんですか?!
山内:わたしは自分で決めたの。療養所は全国に13箇所あるけど、生まれの静岡は絶対いやですって言いました。だって、住んでいた村からもハンセン病が出ていたんだけど、みんなこっそり隠れるように逃げていったから。療養所でもし会ってしまって、秘密がもれたらまずいでしょう? だから、わたしは東京にするって決めたの。東京には一度も行ったことがないし、人から聞いたことがあるけど見たことはないビルディングっていうものを見たかったから、東京見物をかねて(笑)。ところが、東京って言ったって、ここまできたら静岡より田舎じゃないの! ってびっくりしちゃって。(当時の)全生園は夜になっても街灯ひとつないし、電気もないし、コンクリの道があるわけでもなくて泥道だし、「ああ、これは確かにハンセン病を捨てる場所だな…」って感じましたね。
──「療養所ではなくて、老人ホームのような場所になってほしい」とおっしゃっていたように、今はとても整備がされていますが、過去はぜんぜん違っていたのですね。
山内:ひどい場所でしたよ。わたしが来るのを、園長先生が入り口で待っていてくれて、「ここに来てもいいことはないからこのまま帰りなさい」っておっしゃられたの。あなたはまだ22歳だし、もう無菌なのだから社会で生きていけるって。だけど、わたしは決意してここに来たから帰らないって答えました。
──体のなかに菌はいないと検査結果が出たし、うつる病気ではないということも知れ渡っていたのに戻らなかったのですね。
山内:わたしは、この中で暮らす患者さんたちが、どれだけ苦労をしてどういう思いをしているか知りたいと思ったから。それに、もし戻っても、いちど病名がついてしまっているから家族に迷惑がかかるでしょう? 妹の縁談だってくずれているし、かわいそうで…。わたしの父親なんて、兄嫁の実家に土下座をして謝りに行ったんですよ。でも、兄嫁は、「わたしは実家には帰らないでここで暮らす、わたしが気丈にしていないとだれがこの家を守るんだ」って、家に残ってとても頑張ってくれたの。ここにもずっと遊びに来てくれて。家族には恵まれていましたね。