なぜイオマンテを物語の核に据えたのか
──商工会の席でイオマンテ(飼育したクマを殺すことによって神であるカムイをクマという仮の姿から解放し、神の世界へ帰す儀礼)をめぐって論議が交わされるシーンはとても生々しくて、現代を生きるアイヌの中でもさまざまな見解があることを如実に伝えていますね。
福永:あのシーンでイオマンテについて賛成の人は本当に賛成の人で、反対の人は本当に反対の人なんです。リサーチの段階で阿寒を訪れたときにイオマンテについて伺って、そのときされた議論をベースに脚本にして、撮影の際には物語上必要な内容以外はできるだけ実際に思っていることを話してもらったんです。そのときにハッとするような素晴らしい言葉がいっぱいあって、編集でまとめるのに苦労しました。たとえばイオマンテに反対するみんなから「時代が違うよ」と言われたデボさんが「いつになったら時代が来るのよ?」「俺たちアイヌはこのまま変わっちまうのか?」と言い返すのは完全にデボさんの言葉なんです。
この映画を作るにあたって、差別や偏見を助長させるようなものを作ってはいけないというのが意識としてあったので、現代を生きるアイヌの姿を美化せずにできるだけ自然な形で映画の中で描きたかった。アイヌはもちろん一つの大きなテーマなんですけど、今を生きる人間の話にするということを意識しました。デボさんがカラオケを唄っているシーンや、台本を読みながらお祈りをしている姿を入れることは、そういう意味で大事でした。ただそうやって作り上げてもこれはあくまでも阿寒に住むアイヌの話で、決してアイヌ全体の話ではないですし、一口にアイヌといっても実に多種多様な考え方と価値観がある。この映画がアイヌに対するさらなる理解につながれば嬉しいです。
──たとえばカント君が自身のルーツを否定したり、親を含めた大人に対して不信感を抱くのは誰しも一度は経験する思春期特有の通過儀礼ですよね。だから映画の中で描写されるカント君の心情と行動はアイヌでも和人でも共感できると思うんです。
福永:そうですね。どんな人種であれ共感できる部分があると思います。
──現代を生きる同じアイヌの中でも個々人の価値観は相違があるし、世代間でその相違はさらに広がるでしょうし、その差異や葛藤を際立たせる上でイオマンテは格好のテーマですよね。アイヌと和人の見解の相違も浮かび上がるでしょうし。
福永:映画の題材として取り上げるべきかどうか迷ったところはあったんですけど、イオマンテを通してアイヌの世代間のギャップや、それぞれの内面を描けると思いました。アイヌの文化と精神世界の集大成でもあるし、そこまでいろんなことが凝縮されているものが他に見当たらなかったんです。儀式にインパクトがあるから取り上げたわけではなく、そこに内包されたものを通じて、アイヌ独特の文化と精神世界や、現代のアイヌの様々な考え方や思いを描けると思ったので、最終的に題材にすることにしました。
──死者の住む村へとつながる洞穴(アフンポル)が作品の冒頭から出てきて劇中でも重要な役割を果たしていますが、阿寒には実際にああいう場所があるのでしょうか。
福永:あの洞穴は道内の各地に点在しているんですけど、映画で使った洞穴はそういったものではなく、ロケーション時に画になると思って選んだ場所です。穴の向こうに先祖が住んでいるというのはアイヌの死生観につながるもので、穴を境にして生きている人と死んだ人がそれぞれ生活しているという考え方なんです。生と死が上と下ではなく、あの世とこの世でもなく、平行線で同じ軸上にあるという。イオマンテはクマの中に神がいて、その命を奪うことで霊を神の国に送り帰す、そしてまた違う姿で人間の国へやってくるという考え方ですが、それと相通ずる独特の死生観だと思うんですよね。
ドキュメンタリータッチでありながらフィクションである理由
──終盤にその洞穴の前でカント君は《ある劇的な体験》をして物語は結末へと向かうわけですが、あの落としどころは見事ですね。意外ではあるものの非常に説得力がありますし。
福永:あの場面の意図するところを理解してもらえると嬉しいですね。脚本を書いていた段階で、感想を聞いた一人から「話がつながっていないのではないか?」という指摘を受けたこともあったんですけど、あの場面はすごく大事だったんです。カント君が洞穴の前であの体験をすることで、もしかしたらデボさんの言うことは間違っていないのかもしれないと思うことで彼の中で心境の変化が訪れるわけなので。平たく言えば思春期の少年が父親の死と自分のルーツに向き合い、最終的に折り合いをつけながら新しい岐路に立つ物語なので、あのシーンは重要なんです。
──あの場面にこそ劇映画の良さが出ていると思いますし、ドキュメンタリー映画では決して撮れないものですよね。
福永:「なぜフィクションにしたのか?」と訊かれることがありますけど、大きな理由はそういうところなんです。あの場面を挿入することが「これはフィクションですよ」というリマインドでもあって、一つのアイヌコタンの物語が一つの映画に落とし込まれてもこれがアイヌのすべてではないし、現実のすべてでもないし、ドキュメンタリータッチではあるけれども一つのフィクションとして、一つの映画として捉えてほしいんです。アイヌとは何なのか、時代が移りゆく中で伝統を守る意味とは何なのか、自身のアイデンティティと文化のつながりとは何なのかという問いかけをする一つの映画として。
──結果的にカント君が成長したと思しき対比もちゃんと見せていますよね。冒頭と終盤に朝ご飯を食べるシーンがそれぞれありますが、顔つきや仕草から変化が訪れたことが窺えますし。
福永:最初と最後では違いますよね。一つひとつの所作から彼がどことなく変わったことが分かると思います。
──かつての『北の国から』のように、数年ごとにカント君と阿寒のアイヌコタンに暮らす人たちのその後を追うシリーズものになれば面白いなと思ったのですが。
福永:現実の彼は高校にあがって、阿寒には高校がないので下宿しながら釧路の高校に通っているんです。映画の通りに音楽が好きで、ミュージシャンの表現に興味があるようです。今後は音楽をやるのか、また演技をする機会が訪れるのか分かりませんけど、何らかの表現をしていくんじゃないですかね。
──劇中、カント君が通う阿寒中学校の階段の踊り場に「カント オㇿワ ヤク サㇰノ アランケプ シネプ カ イサム」(天から役割なくおろされたものは一つもない)という言葉が掲示されていますが、あの言葉に物語全体を通じたメッセージが込められているようにも思えますね。
福永:あの標語は実際に中学校に貼り出されていたものなんです。カント君がデボさんとキャンプに行って雨に降られるシーンで、デボさんが「よく降る雨だけど、こんな雨にも都合があって降ってるからな」と話していますが、あれは「天から役割なくおろされたものは一つもない」ということのくだけた表現なんです。あの言葉はデボさんが撮影の現場で話してくれたことで、僕が書いた言葉ではないんです。でもそれはデボさんが作品の意図を汲んでくれたというか、中学校にそういう標語が貼ってあるという脚本を読んでくれた上で話してくれた言葉だと思うんですよ。デボさんは本当に類い稀な表現者だと思います。
──デボさんは役者としてだけでなく、作品全体の精神的支柱であるように思えますね。
福永:絶対に欠かせない、大きな存在でしたね。「こういうシーンをどう思いますか?」とか随時意見を求めましたし、アイヌの文化や劇中でのアイヌの描き方などいろいろな場面でたくさんのアドバイスをいただきました。