チューリップテレビに残った社員の戦い
──チューリップテレビの社内に「正々報道。」のポスターを貼る場面と、それを剥がす場面の両方が入っているのもストーリーがありますよね。後半、急にテレビ局の内部の話になっていくところもびっくりしました。
五百旗頭:僕たち組織ジャーナリズムとしての苦悩や、ずっと取材をしていても思い通りにいかないことや、あらゆる葛藤を表現しないとだめだっていう命題があったんです。一旦は、僕と砂沢が報道フロアで喋っていて、「結局なにも市議会は変わらない」っていう悩みを打ち明けるシーンを撮るかっていう話も出ました。だけど、それまで散々ガチンコでやってきたのに、最後にそんな演出じみたことをやったら興ざめだなと思ったんです。それで、自分の仲間に退職を告げる場面を考えたのですが、いくら映画を撮っているからといってもそれを素材として使ってしまうのは、いち人間としてちょっと抵抗があったんです。
だから、最初からカメラを入れるのではなくて、最初に退職を告げてから、今映画を撮っているからそこでも使いたいという意図を説明して、ひとりでも反対したらあのシーンは使わないという条件で撮ったんです。でも、いざあの場に立つと自分の感情を制御できなくなってしまって、自分としては「やっぱり使いたくないな」と思いました。だけど、そのシーンを見た砂沢と西田が、これは絶対に入れないとだめだ、自分たちの弱い部分も見せないと再生につながらないんだと。それで使うことに決めました。
僕は会社を去ることになりましたが、砂沢と服部はチューリップテレビに残ってこの映画を上映するために会社と話し合った。そして、会社は上映を許容したんです。そこの意味を深く考えてほしい。あと、なぜ会社を辞めたのか理由をよく聞かれるんですけど、僕の監督としての表現はあれが全てです。ギリギリの表現だと思うんですけど、それも含めて僕らの葛藤を考えてほしいというのがひとりの監督としての想いです。
──砂沢さんが最後に五本議員へ挨拶に行ったのは、最後だからこそ今までのことを振り返ってくれるのではないかという気持ちがあったのでしょうか。
砂沢:五本さんっていうのは、最初は嫌がっても最終的にはカメラの前で答えてくれるんですよ。本当に取材の最後だったので、「どう思ってるのかな?」と、単に興味があって聞きに行きました。自分自身でもなぜそんな質問をしたんだろうって思うんですけど、「(取材を受けて)失敗だったと思いますか?」って聞いたのは、僕が心の中で素で思ってたことでそのまま出ちゃったんですね。そしたら本人も、「そりゃあ失敗したと思った」って言うので、それもびっくりしました(笑)。
──「いらんこと言った」って自分でおっしゃってましたもんね。
五百旗頭:あれは最後だからこそのリップサービスの意味もあるんですよね。普通、あそこまでカメラの前で言わないですよね。しかも最初はめっちゃ怒ってましたから(笑)。砂沢は断られたらやばいと思ってたらしいのですが、僕の感覚として、五本さんは最初は怒ってもしつこく頼めば答えてくれるだろうと信じている部分があったんです。彼は絶対に拒まないだろう、と。
──この映画って、悪い人がいっぱい出てきますけど巨悪ではないんですよね。一方、国会はどうかって言ったら、例えば、望月衣塑子さんと菅官房長官のやりとりを見ていても、全然心が通っていないじゃないですか。
一同:(笑)
──だから、この映画は救いがあるなと感じました。
五百旗頭:そうですよね、それは確かにありますね。
砂沢:市民に選ばれた立派な政治家にも見えるし、不正をしたすごく悪い人間にも見えるんですね。でもずっと取材をしていると、この人はやっぱり普通の人だなって感じる部分もあるんですよ。そこは憎みきれないというか。
五百旗頭:彼らをただの悪者として描けば、映画を観ている人は納得するだろうし、よくぞやっつけてくれたと胸をなでおろすかもしれないけど、本質はもっと複雑で、彼らにもいい面があるし。そこも含めて観る人に考えてほしいです。テレビは二元論に落とし込んで、白か黒かみたいな傾向が強いので、曖昧なものをそぎ落としてわかりやすい作りにしてしまう。でも、ドキュメンタリーはそうであってはいけないと思うし、そこはこだわりました。単純化した図式にはめこむことによって失われてきたものって多いと思うんです。テレビを作ってきた人はそれが当たり前だと思っている。だけど、それが不信感を招いている部分ではないのか? そういった部分への抵抗の気持ちもあります。
こつこつ積み上げて、いずれ結実し、ようやく大きな動きになる
──最近はドキュメンタリー番組が映画になることが多いですが、今後、報道をやっていくにあたってテレビを変えていきたいという気持ちもありますか?
五百旗頭:それはあります。日本のドキュメンタリーを考えたときに、海外と比べてガラパゴスじゃないかなと思うんです。海外は基本ノーナレーションが主流なのに、日本のドキュメンタリーはわかりやすい作りを求められますし、最後に落とし込むところがないと制作ができないことが多い。でも、答えを提示する必要なんて全くなくて、もっと観る人に委ねるべきなんですよね。観る人の想像力や、観る力を喚起するのがドキュメンタリーのあるべき姿だと思うんです。そこは変えたいし、変わっていってほしいと思います。
──政治のことを考えたときに、怒りだとか、「またこれか」と落胆する気持ちを繰り返しているうちに諦めてしまう人もいるのではと思っています。そんな中での気持ちの保ち方をぜひ教えてほしいです。
五百旗頭:折れていいと思うんですよ。でも諦めてしまったら終わりです。世の中のものごとは、一気に劇的に変わることはないと思うんです。こつこつ積み上げていって、それがいずれ結実して、ようやく大きな動きになっていく。そういう何気ない地味なものにこそ、本質があると思います。だから、折れても粘り強くやり続けていくことが、いずれ何かを動かしていく。……じゃないと僕ら、なんの責任も果たせないですからね。ほとんど変わらないような、ちょっとした変化かもしれない部分を信じてやっていくしかないかなと思います。
砂沢:僕らは報道をし続けるしかないので、答えにはならないかもしれないですけど、諦めてしまって投票に行かなくなればなるほど、支援者を持っている人が当選するのでずっとなにも変わらないんです。そこにひとりひとりが気づいていくしかないのかなと思います。誰に投票するのかを考えて、自分で一票を入れ続けていくしかないんですよね。