窪田晴男が岩田浩史から受け継いだバトン
──「風は吹かない」同様MVがつくられた「忘れ物音頭」は底抜けにファンキーで賑々しく、一度聴くと「財布、携帯、鍵、たばこ」というフレーズが忘れられなくなる中毒性の高い曲ですね。
金子:この歳になると物忘れがひどくて困っちゃうっていう曲だから、「忘れ物音頭」よりも「物忘れ音頭」にすれば良かったと後から思ったんですよ。この曲を録音してから物忘れがさらにひどくなったっていうメンバーもいるし、事態は深刻なんです(笑)。でもいい曲が録れたと思う。歌詞もすごく北さんらしいしね。私の「あー、メガネっと!」っていう合いの手は、昔の日活映画に出てくるラテン・バンドみたいにしようかなと思って(笑)。
──曲の最後にマリさんの笑い声が入っていることからも、バンドが演奏を楽しみながらレコーディングしたのが窺えますね。
金子:だってすごくおかしかったんですもん。森園くんのギターがコントのオチみたいにブウウウウウ…って終わるのが(笑)。
──サム・クックの「A Change Is Gonna Come」は、「風に吹かれて」へのオマージュである「風は吹かない」との対比として本編の最後に配置されているわけですね。
金子:そういうことなんだと最近知ったんですよ。森園くんは最初からそう思ってたらしいんだけど、それなら早く言ってよって(笑)。石やん(石田長生)がリーダーだったザ・ヴォイス&リズムで一緒にボーカルをやってた砂川正和が「A Change Is Gonna Come」をよく唄っててね。砂川くんも14年前に亡くなっちゃったので、私が代わりに唄い継いでいこうと思って何年か前から唄ってるんです。
──原曲は60年代のアメリカで公民権運動のアンセムとして支持されたもので。
金子:ライブでやるとけっこう評判がいいので、今回のアルバムでもやってみようと思って。私は世代的にサム・クックよりもオーティス・レディングのほうが好きだったんだけどね。スライ&ザ・ファミリー・ストーンとかサム&デイヴとか、中学生の頃からソウル・ミュージックが大好きだった。
──5th版の「A Change Is Gonna Come」は日下潤一さんによる原曲に忠実な訳詞もいいですね。
金子:日下くんは『プレイガイドジャーナル』とか『芸術新潮』のアートディレクションをやってた人でね。『春一番コンサート』のスタッフとかと仲間だった人。
──ボーナストラックのライブ音源3曲もまた非常に聴き応えがありますが、「I'm Tore Down」は岩田さんのプレイも聴ける貴重なテイクですね。
金子:2011年に神戸でやったライブ音源なんだけど、岩田くんはそのツアーに参加できなかったのね。後でたまたま彼の体調が良かった時にギターをダビングしてもらったわけ。最期の3年間くらいはずっと入退院を繰り返してましたからね。
──わざわざダビングをしていたということは、当初から何らかの形で発表する予定だったんですか。
金子:ライブ盤を出す計画があって、マスタリングまでしたんだけど、諸々の事情で頓挫しちゃったのね。それでずっとお蔵入りしてて、今回、一部だけどやっと日の目を見たわけ。あの時の演奏はすごく良かったし、インストだけど出すべきだと私はずっと思ってたの。特典映像で入れた岩田くんがいた時のライブ映像も私は絶対に入れておきたかった。
──音源でも映像でも、岩田さんの体調は相当悪かったはずなのに、プレイ自体はとても生き生きとしていて凄みを感じさせますね。
金子:5thは毎月第3土曜日に440でライブをやっていて、そこで岩田くんが出演した最後のライブに窪田くんが初めて参加したのね。だから彼らは一度だけ対面していて、その時に岩田くんが窪田くんのほうへ歩み寄って「頼むな」って耳元で囁いたみたいで。それで窪田くんの手をギュッと握って帰ったらしい。その3週後に亡くなってしまった。
──5thのことを託すとバトンを渡されたわけですね。
金子:そうなの。ジーンズを履くにも3時間かかるくらい骨髄の具合が悪かったのに、わざわざ440まで来てくれてね。病気の辛さを微塵も出さない気丈な男だった。岩田くんは森園くんみたいに響きのあるギターを聴かせる人じゃないけど、プレイでも人間的にもストレートで、本当にいい男だった。私が一緒にライブをやろうよって言うとすごく喜んでくれてね。彼が亡くなった後、部屋がそのままになってるというので行ってみたら、私が「また一緒にライブをやりましょう」って書いて送ったFAXが壁に貼ってあったな。
──今回のアルバムにも「Guitar、天国:岩田浩史」とクレジットされているし、岩田さんはこの先もずっと5thの一員なんですよね?
金子:終身名誉メンバーみたいなね。これでまた1人減り、2人減り…となったら解散するしかないのかなと思うけど。まぁ、みんなただ好きでやってることだからね。エッ? バンドって売れるの? って感じだから(笑)。さっきも話したけど、音楽でお金を儲けようって発想からだいぶかけ離れてるんです。
ライブをやれるロフトは本当に貴重な場所だった
──ところで、マリさんといえば荻窪、下北沢、初期の新宿とロフト黎明期の常連出演者でしたが、今でも痛烈に覚えているエピソードを聞かせていただけますか。
金子:たとえば荻窪ロフトではオーナーの平野(悠)さん自らビールをお客さんに出してたのね。ちょうどバックスバニーをやってた頃で、私はよく本番の前にビールを呑んでいて、平野さんに「すいません、ビールはいくらですか?」って訊いたの。そしたら「お金を払いに来たミュージシャンはきみが初めてだ!」って褒めてもらったんです(笑)。それはよく覚えてる。あとはやっぱり地元の下北沢ロフト。居心地のいい所でしたよ。確かソー・バッド・レビューと対バンしたんだけど、当時の彼らはすごい人気があったわけ。開場前にロフトの前にダーッとお客さんが並んでて、それを見た北さんが「この行列は何なんですか?」ってお客さんに訊いたら「大阪からすごいバンドが来るんですよ!」って言われて。自分たちのことなのに分かってなかったっていう(笑)。いろんなことがありましたよ、下北ロフトは。打ち上げで夜遅くまでいたから、夜中の2時くらいになるとたいてい誰かが裸で踊ってたしね(笑)。
──スタッフとの交流も盛んでした?
金子:サザンにいた大森(隆志)くんとか毛ガニ(野沢秀行)がスタッフだったね。後で自由が丘ロフトの店長になった佐藤(弘)くんも下北ロフトで働いてて、彼とは些細なことをきっかけに一度大ゲンカしたことがあった。それで仲良くなったんだけどね(笑)。とにかく下北ロフトでやるライブはいつも超満員でしたよ。当時のバックスバニーは1曲=1時間とか平気でやってたバンドで、ベースの鳴瀬(喜博)さんに至っては20分以上ソロを弾きまくっててね。おかげで私はタンバリンを叩くのがだいぶ上手くなった(笑)。あと、うちの母が南口の商店街で「まり」っていう喫茶店をやってて、そこは下北ロフトの楽屋代わりによく使われてたの。そこで石やんとか関西のミュージシャンと出会ったりしてね。
──新宿ロフトには記念すべきオープン当日にバックスバニーとソー・バッド・レビューの2マンでご出演いただいたんですよね。
金子:店の真ん中に潜水艦のオブジェがあった頃ね。ライブ中に左のスピーカーが飛んじゃったことがあって、修復するのにすごく待った記憶がある。あの時は女の人がミキサーをやってて、その人からCMの仕事をもらったこともあった。ロフトでいちばん出たのはもちろん下北だけど、荻窪にもけっこう出たのよ。あそこはステージの上の折りたたみ階段が搬入口で、そこから楽器を入れられて便利だった。当時はオルガンもレスリースピーカーも全部自分たちで運ぶので大変だったんだから。あと、私は西荻窪ロフトにも出たことがあるの。
──フォーク系のスポットなのに? それは意外ですね。
金子:一度だけ難波(弘之)くんとデュオをやったことがあってね。その時にCharが観に来たからよく覚えてる。意外な曲ばかりやった記憶があるね。今の新宿ロフトは歌舞伎町でしょ?
──移転してから今年で19年になります。
金子:すごい所だね、新宿は。夜中でもあんなに人がいるんだから。このあいだ、アルタのビジョンに今回のアルバムのトレーラー映像が流れるというので久々に歌舞伎町へ行ってみたけど、すごかったな。こんな夜中にみんな何してんの? って思った(笑)。昔は仕事がなかったものだから、バックスバニーみたいなバンドでさえ歌舞伎町のディスコで1、2週間くらいライブをやってたんですよ。だってライブをやれる所が他にないんだもん。だからロフトは本当に貴重な場所で、すごくありがたかった。