11月30日(日)にクラブチッタで行なわれる『SHINJUKU LOFT 15th ANNIVERSARY「LOFT MUSIC & CULTURE FESTIVAL 2014」』は、歌舞伎町移転15周年を迎える新宿ロフトが放つ最新鋭の音楽とカルチャーの祭典である。移転直後の市松模様のステージを飾ってくれたTHE BACK HORNはロフトをホームグラウンドとしていた時期があり、このフェスへの出演も二つ返事で快諾してくれた。新生ロフトとほぼ同じ歳月を経て、日本のロックの屋台骨を支える中核バンドになるまでの成長を遂げたTHE BACK HORNの知られざる"青の時代"とは? 山田将司(vo)と松田晋二(ds)に話を聞いた。(interview:椎名宗之)
新規ベーシストをロフトのバーでスカウト
──新宿ロフトに初めて出演したことは覚えていますか。
松田:いやぁ…ちょっと思い出せませんねぇ。インディーズ時代だったのは間違いないんですよ。[註:取材後に調べたところ、1999年11月24日に行なわれた『THE 3PEACE presents Give Peace A Dance! Vol.2』のオープニング・アクトと判明]
山田:2000年の年越しイベント(『THE FINAL of 20th CENTURY presented by LOFT』)は記憶に残ってるんですけどね。
松田:最初、シェルターのオーディションを受けたんですよ。何とか合格して夜の部に出させてもらったんですけど、その頃はまだお客さんを25人くらいしか呼べなくて。そんな状態がしばらく続いて、当時の店長だった西村(仁志)さんも最初は温かい目で見ててくれたんですけど、3回目くらいでいよいよ「次もまたこの動員なら、シェルターでやらせるわけにいかない」ってライブ当日の開場前に言われて(笑)。で、リハが終わって本番までの空き時間に将司と(菅波)栄純が下北の駅前で弾き語りをして、そこでチケットを50枚くらい売ってきたんですよ。それで何とか首の皮一枚でつながったんです(笑)。
──『Rooftop』ではかなり早い段階で表紙巻頭を飾っているんですよね。2001年12月号だから、『人間プログラム』が出た直後ですね。
山田:その前に、『空、星、海の夜』のタイミングでも取材を受けた記憶がありますね。
──はい、2001年8月号にもインタビューが掲載されていました。Hermann H. & The PacemakersやFARMSTAY、セツナブルースター、フラカンと共演した『ムームー Vol.33 〜新宿出張編〜』(2001年8月15日)の告知も兼ねて。当時のロフトとシェルターのスタッフが如何にTHE BACK HORNを推していたかが分かりますね。
松田:表紙にさせてもらったのは、COCK ROACHやTITTY TWISTERと合同企画した『化獣(BAKEMONO)』(2001年12月21日)の頃ですね。バンド初のワンマンはシェルターで、2000年6月(7日)だったかな。
──そうですね。『甦る陽』が出た後。
松田:その後、シェルターからロフトへ移行するんですけど、キャパが格段に上がるじゃないですか。そこで550人をどう集めるかはけっこう高いハードルでしたね。なんせシェルターの倍ですから。
山田:シェルターのワンマンの後、『風船』のレコ発はロフトだったよね(2000年9月27日)。で、その後にロフトで2度目のワンマンをやった(2000年11月27日)。
松田:そう、『風船』のレコ発ツアーの流れでね。完売こそしなかったものの、何とか頑張って満員に近い形にはできて。シェルターのワンマンとはまた違う雰囲気のワンマンでしたね。
──結成当初はロフトのワンマンが目標としてあったんですか。
松田:ありましたね。当時の事務所の社長だった安藤(広一)さんがバンドの音楽性や成り立ちを考えて、一歩ずつ着実に階段をのぼっていこうっていう指針を取っていたんです。僕らもそれと同じ気持ちだったし、ロフトのワンマンはひとつの大きな目標でしたね。ただ、ロフトでワンマンを売りきったのって、ロフトでやってた最後のほうだったんじゃないかな?
山田:ロフトのワンマンは2回やってるんだよね。
松田:うん。550人は埋まらずに400人くらいの動員で、その後はメジャーに行くタイミングでステップアップとしてクアトロに行っちゃったんですよ。で、それから8年後にバンドとしてやり残したことがあるってことでロフトでワンマンを切ったんですよね(2008年12月9日、『KYO-MEIツアー〜創造のパルス〜』)。
──THE BACK HORNとロフトは浅からぬ縁がありますよね。(岡峰)光舟さんの加入はロフトのバーで決まったわけですし。
松田:しかも、その場にメンバーが誰もいなかったんだから凄い話ですよね(笑)。その時はメンバーも悲しみと途方に暮れていて…。専門学校で結成したバンドがやっとメジャーに行けることになって、レコーディングも済ませて、ここから新たな世界へ飛び出すぞ! って時にベースが辞めることになったので。それでも彼のことを尊重して、3人でやっていくことにしたんですけど、車輪を1個失った気持ちだったんです。だから前向きにメンバーを探す気になれなくて、ずっと呑んだくれていたんですよね。
──そんな頃、当時のマネージャー氏がロフトを訪れたと。
松田:ロフトに行けば何かしらミュージシャンの情報が手に入るだろうってことで。そこで店長だった東田(慎二)さんに「ウチのスタッフにベースを弾いてる奴がいますよ」と紹介されたのが、その時バー・カウンターにいたロフトのスタッフ、光舟だったんです。
山田:当時は面識がなかったんですけどね。
松田:前のベースの最後のライブもロフトで(2001年2月23日)、光舟はそれを見てたらしいんですよ。そこでベースが抜けることも知ってたらしくて。ただ、周りのロフトのスタッフがあまりにTHE BACK HORNをいいって推すものだから、逆に光舟はライブを見ないようにしてたそうなんです(笑)。
山田:そこまで褒めるなら自分は見ないって(笑)。