メンバーは80年代のジャパニーズ・ハードコア黎明期のキーマン、繰り出される音楽は民族音楽の要素を加味したアラビアン・ハードコア。そうした惹句をぼくらも便宜上使うけれども、ハードコアの鋳型から軽やかに逸脱したその音楽は、まず一切の先入観を排して体感することをお勧めしたい。
ベースのHIROSHI(あぶらだこ)、ドラムのMARU(ex.あぶらだこ〜LIP CREAM〜LAUGHIN' NOSE)、ボーカルのNEKO(ex.THE NURSE)から成るD・O・T(ディー・オー・ティー/Desert Of Tomorrow)。武骨でいて繊細な音響、ギター・レスながらリズムの妙味で一気に聴かせる卓抜した演奏力、妖艶な女性と清純な少女が共存したような歌声、まるで万華鏡のように表情を変える楽曲の多面性、ライブで魅せる超絶のダンス・パフォーマンスという強力な武器。彼らの特性を記せば枚挙にいとまがないのだが、何よりも素晴らしいのは各人が各様の華麗な経歴に甘んじることなく先鋭的で瑞々しい表現を為し得ていることだ。まるでデビューしたてのルーキーのようなその溌剌とした音を聴けば、あなたもきっと納得するはずだ。バンドの有望性の高さと、彼らのピークがまだこれから先だということを。(interview:椎名宗之)
NEKOの加入が大きな転換点だった
── ファースト・アルバム『Desert Of Tomorrow』の発表に至るまでには紆余曲折がありましたね。
HIROSHI:MARUとスタジオに入り出したのが2009年だから、D・O・Tと名乗ってからもう4年になるのかな。あぶらだこが2009年に高円寺のショウボートでやったライブ(2009年2月7日『あぶらだこ26周年ワンマン』)をもって活動休止になって、いつ再開するか分からない状況だったんだけど、自分としてはやっぱり音を出していたかったわけ。
── MARUさんとまた一緒にバンドをやりたいという思いはずっとあったんですか。
HIROSHI:日頃から意識して曲を作ることはそれまでなかったんだけど、当時は曲が降りてくるように出来ていた時期でね。曲があればバンドができるし、それならまたMARUと一緒にやりたいっていう衝動に駆られて、彼にアプローチしてみた。それがすべての始まり。
── とは言え、MARUさんは2ビートを基調とした激しいドラムから遠ざかっていた時期だったと思うんですが。
MARU:2007年にLAUGHIN' NOSEが野音でやった『ラフィン祭り』にゲスト出演して以来ですね。その3年前にも87年の事故以来の野音っていうのがLAUGHIN' NOSEであって、それに出演するために“いかあぶら”っていうリハビリみたいなバンドをやった程度で、基本的にパンク/ハードコアの世界からは離れていたんです。もっと遡ると、今から15年ほど前に土取利行っていう世界的なパーカッショニストと一緒に和太鼓とガムランのセッション・グループ(スパイラル・アームズ)をやっていたぐらいなので。
── でも、他ならぬHIROSHIさんからの誘いなら断る理由がないということで快諾を?
MARU:最初にHIROSHIから連絡をもらった時は、正直困りましたけどね(笑)。ただ、彼のベースに引っ張られて身体も勝手に動いたし、音にプログレッシブな面もあったし、お互いに聴いてきた音楽も似ているから違和感なくやれたんですよ。
HIROSHI:どんな感じの音を出したいのかを話し合った上でスタジオに入ったんだよね。MARUがLAUGHIN' NOSEをやめた後にやっていた活動や彼のテクニックを考えると、「80年代のハードコアのスピード感で、全面2ビートで叩いてもらいたい」っていうのはちょっと心苦しいお願いだったんだけど、最終的には承諾してもらった。
MARU:一口に2ビートと言っても、HIROSHIのベース・ラインはいわゆるハードコアのそれとはちょっと違うんですよ。オーケストレーションっぽい幅があるし、凄くメロディアスで彩り豊かなハーモニーを奏でますからね。
── 当初はNEKOさんとは別の女性ボーカリストとギタリストが参加していたり、いろいろと試行錯誤していたんですよね。
HIROSHI:うん。ハードコアを母体とした音楽を一貫してやり続けていたけど、やっぱりNEKOが入ったことが大きなターニング・ポイントだったね。作曲の面でも如実に変化が表れるようになったから。
── NEKOさんはNURSE時代からHIROSHIさん、MARUさんと知り合いだったんですよね?
NEKO:80年代初期からの付き合いですね。
MARU:当時は顔見知りっていう程度で、そんなに仲良くしていたわけじゃないんですよ。会えば挨拶するぐらいで。実際、NURSEのライブは全然覚えてないし(笑)。
NEKO:それは自分たちも覚えてない(笑)。でも、当時のフライヤーとかを見ると、あぶらだことは何度も対バンしていたんですよね。MARUちゃんたちと同じシーンにはいたけど、私たちはまだ高校生だったから接点があまりなかったんですよ。
引き寄せられるように巡り会った運命
── どんな経緯でNEKOさんに白羽の矢が立ったんですか。
HIROSHI:まず、アースダムでMARUがNEKOとバッタリ会ったんだよね。
NEKO:2年前にNURSEの再発の話があって(1stソノシートと2nd EPに未発表ライブ音源を加えた『THE NURSE 1983-1984』として発売された)、それを出すにあたって了承を得るために、PILL(ex.LIP CREAM)やTATSU(ex.DEAD COPS〜GASTUNK)といったNURSEの作品やライブに参加してくれた面々と再会することになったんです。で、PILLと会った時に「今度アースダムでライブがあるから遊びに来ない?」って誘われたので行ってみたら、そこにMARUちゃんがいたんですよ。それで「うわー、久しぶり!」って話になって。
MARU:当時は凄く生意気な子どもだったのに、すっかり大人の女性になっててね(笑)。
NEKO:その時に自分のやっていたダンスのフライヤーをMARUちゃんに渡したんです。四人囃子の岡井大二さんというドラマーとダンスでセッションするイベントのフライヤーで、それを見たMARUちゃんが「今、そんなことをやってるんだ!?」って凄く驚いてね。
── NURSEが解散してからのNEKOさんは本場のエジプトで舞踊とベリーダンスを学んで、それを日本に広めた第一人者としてエジプト舞踊の世界では認知されていて。
NEKO:NURSEをやめた後にスカウトされて、ドラマやCM、雑誌とかの仕事をしていた時期もあったんですけど、結局、業界の水が合わなかったんです。それで1986年にダンスを習うためにエジプトへ行ったんですよ。それ以降はバンド仲間と連絡が一切取れなくなって、ライブハウスへ行くこともなくなったんです。だから、MARUちゃんたちと再会したのは軽く25年振りだったんですよね。エジプトの国立民族舞踊団でダンスを勉強してからずっと堅めの仕事ばかりやってきたんですけど、MARUちゃんたちと再会する直前はどういうわけか音楽系の人とのセッションが増えていたんですよ。岡井さんを始めとして、ジャズ・サックスの坂田明さん、パーカッショニストのスティーヴ エトウさん、そして外道の加納秀人さんといった方々との共演も自然と続き、今思えばバンドの世界へ戻る予兆みたいなものがあったのかもしれませんね。
── そんな流れがあって、NEKOさんの加入に至るわけですか。
NEKO:岡井さんとのセッションをMARUちゃんが見に来てくれたんです。しかもPILLとBAKI(ex.EXECUTE〜GASTUNK)も個々で来てくれて、客席で3人が並んでいたのがおかしくて(笑)。
MARU:原宿のお洒落なレストランでね。お昼だったからアフタヌーン・ティーしちゃいましたよ(笑)。
NEKO:それで、その後にまたMARUちゃんとアースダムに行ったんですよね。
HIROSHI:当時D・O・Tのボーカルだった子がドラムをやっているバンドのライブがアースダムであったんだよ。僕はそこでNEKOと再会して、それまで何十年もダンスの仕事をしていたという経歴を立ち話で聞いて。で、彼女から「踊りたい」「唄いたい」という話を聞いて、それなら一緒にバンドをやらないか? ってことになった。それで早速音源を送ったんだけど、最初はダンスとして入ってもらうっていう話だったんだよね。
NEKO:そうそう。その時はまだボーカルがいましたからね。
HIROSHI:ただ、もともといたボーカル向きじゃない楽曲もあったから、そういうのはNEKOに唄ってもらうことにした。曲によってボーカルを使い分ける発想も面白いんじゃないかと思って。その発想が先だったのか、もとのボーカルが自分のバンドを優先することになったのが先だったのか、前後関係の記憶は定かじゃないけど、結果的にはNEKOが正式にボーカル兼ダンスとして参加してもらうことになったんだよね。