1991年11月28日。紆余曲折を経てヴォーカリストが脱退することになったザ・グルーヴァーズは藤井一彦(vo, g)、高橋ボブ(b)、藤井ヤスチカ(ds)の3人で屋号を引き継ぎ再出発するべく、オープンからまだ2ヶ月も経たない下北沢シェルターのステージに降り立った。しかも、そのライヴは藤井一彦がヴォーカルを兼任して全編新曲のみを披露するという無謀とも言えるセットリストであり、今日まで続く奇蹟のロック・トリニティが狂おしきこの世界で放浪の運命を背負いながら常に先鋭的なブルーズ&ブギーを咆吼することを決意した一夜だった。
退路を断って臨んだあの記念すべきライヴから今年でちょうど20年。同じくオープンから晴れて成人式を迎えるシェルターにグルーヴァーズが還ってくる。20年間一貫して「最高傑作はネクスト・ワン」を信条に疾走を続けてきたバンドの凄み、20年間一貫して大器の片鱗を見せるラディカルな音楽を支持し続けてきたライヴハウスの風格、そのどちらが欠けても成立しない一期一会のコラボレート・ワンマンが実現することになったのだ。このまたとないアニヴァーサリー・ライヴを目前に控え、藤井一彦に20年前のトリオ初ワンマン敢行の経緯から近況に至るまでを存分に語ってもらった。(interview:椎名宗之)
トリオ初のライヴを全曲新曲でやる無謀な試み
──今回のシェルター・ワンマンはスタッフからの熱烈なラヴ・コールを受けて快諾して下さったそうで、本当にどうもありがとうございます。
藤井一彦(以下、K):いえ、こちらこそ。現店長の上江洲(修)君からオファーをもらったんだけど、ブッキングをしていた別のスタッフからも去年の早い段階から話をもらっていたんだよね。「来年はシェルターのオープン20周年なので、何かスペシャルなことをやって欲しいんですけど…」って。その時にふと思ったんだよ。「待てよ。シェルターが20周年ってことは、トリオとして再出発した初ライヴをシェルターでやってからもう20年経つのか…」って。上江洲君が店長になってからもその話は続いていたんで、せっかくだからやらせてもらおうという気持ちが強くなっていったんだよね。
──当時、バンドの再出発にあたって縁の深いロフトでライヴをやる選択肢はなかったんですか。
K:なくはなかったんだけど、ちょっと厚かましいかなと思って。ビビッていたわけじゃないんだけど、ヴォーカルが抜けた後に3人で再出発する初めてのライヴを全部新曲のワンマンでやるっていう、かなり無謀な試みだったから(笑)。そんな時にロフトの姉妹店であるシェルターが出来るという話を聞いてさ。ロフト特有のムードがありながらも新しく始まる空気があったし、シェルターにお願いするほうがいいのかなと思って。
──グルーヴァーズを新たに始動させるという部分ともリンクしますからね。
K:そうだね。タイミング良かったと思う。
──全部新曲でワンマンをやるアイディアは一彦さんが考えたんですよね?
K:うん。当時と言うか今もだけど、俺は“下北沢のルー・リード”と呼ばれるくらい声が低くて(笑)、初期の曲を唄おうにも唄えなかったし。それに、これからもずっとバンドを続けていくなら全部曲を書き直すくらいの意識じゃないとダメだと思った。それで自分が唄うことを前提にした曲を書き溜めることにしたんだよ。そんな状況だったけど、新しくオープンするライヴハウスがやらせてくれるというなら挑戦してみようか、と。
──当時は初代店長の平野実生が窓口にあたっていたんですよね。
K:そう、平野君ね。「いいじゃないですか、是非やって下さいよ!」みたいなことを言ってくれて有り難かったよ。いくら少しの間メジャーで活動していたからと言って、ヴォーカルが代わって今までのレパートリーを1曲もやらないなんていう無謀なライヴをよくやらせてくれたなと思ってさ。そんな店、果たして他にあったのかな?と思うよね。しかも、これは店には内緒にしてたけど、日程押さえた時点ではまだワンマンやるだけの曲数がなかった!(笑)
──当時のシェルターの思惑と諸々一致した部分もあったんでしょうね。
K:それもあっただろうし、当時はまだ24歳だったからやれたことなのかな? とも思う。20代半ば特有の血気盛んな部分や、根拠のない自信と言うか。
──フタを開けてみればワンマンは満員御礼の大盛況だったんですよね。
K:有り難いことにね。でも、再出発の最初のライヴは満杯になるだろうとは思ってた。興味本位で見に来る人たちもいるだろうから。ただ、「全曲新曲でやります」というインフォメーションをちゃんと流せたかどうかよく覚えてないんだよね(笑)。レコード会社との契約も切れて宙ぶらりな時期だったし、インターネットなんてない時代だし。そう言えばRooftopに「3人で続けます」という声明文みたいなのを載せてもらったかも。でも、それでもファンにしてみればかなり唐突なライヴだったんじゃないかな。結果的にその1回目のライヴはたくさんのお客さんが来てくれたんだけど、自分たちとしては2回目のライヴでお客さんが半分になってもいいという覚悟で臨んだんだよね。それはよく覚えてる。
──実際、2回目以降の動員はどんな感じだったんですか。
K:ちゃんとある程度入ってくれて、それは嬉しかったよ。
──フロントマンであるヴォーカリストが脱退してギタリストが唄うことになったという経緯は、先人で言えばルースターズの軌跡と重なりますよね。
K:実は、ルースターズにあやかって“GROOVERS”の最後の“S”を“Z”にするかどうか迷ったんだよ(笑)。それじゃあまりにパクリだからやめたけど。
志の低いバンドと一緒にされたくなかった
──それまでのレパートリーは封印して一彦さんが唄う以上、全くの別バンドになるということだから、いっそのこと名前を変えることもできたのでは?
K:それももちろん考えたよ。何日も眠れないくらい迷ったんだけど、意地があったんだよね。当時はいわゆるバンド・ブームでさ。ブームとは言っても俺らはどの波にも乗れていなかったけど、とにかく凄くたくさんのバンドがいたわけ。で、レコード会社との契約が大体2年、アルバムは2枚、売れ行きが良ければ更新ありみたいなパターンが多かった中で、2年間の契約が切れたと同時に解散するバンドが腐るほどいたんだよ。それじゃあまりに志が低いし、メジャー・デビューして多少いい思いをしたからもういいやっていう気持ちが見え見え。そういうカスみたいなバンドたちと一緒にされるのは死んでもイヤでね。名前を変えると一旦終わっちゃうから一緒にされる可能性が高いじゃない? それで凄く迷ったんだけど、グルーヴァーズという屋号は引き継ぐことにしたんだよね。
──屋号を引き継ぐ以上、前任ヴォーカルのイメージや楽曲の世界観と絶えず比較されるプレッシャーを背負うことになるわけですよね。
K:リスクは結構あるよね。でもそれ以上に、契約切れと同時に解散するようなバンドに成り下がるのだけはイヤだったんだよ。今振り返るとその気持ちがよっぽど強くあったんだろうね、血気盛んな若者としては(笑)。
──真っ新な新曲をワンマンまでに仕上げることも大変なプレッシャーだったんじゃないですか。
K:今ならできないね(笑)。まぁでも所属事務所はあったし、リハーサルくらいはやらせてもらえていて、3人でずっとジャム・セッションをしていたわけ。そこから曲になりそうなものが出来てきて、「俺が唄うってことでいい?」っていう確認もした気がする。自分が唄いたいということよりも、とにかくバンドを続けたい気持ちが強かったんだよ。一番手っ取り早いのは新しいヴォーカルを探すことじゃなくて、残ったメンバーで何とかすることだったからね。
──ヴォーカルを一から探すことも考えたんですか?
K:探したよ。ただ、いいヴォーカリストが見つからずに自分が仮で唄うことになったまま20年が過ぎちゃったんだよ(笑)。
──随分と長い月日が経ちましたね(笑)。
K:というギャグをスパークス・ゴー・ゴーのヤック(八熊慎一)が言ってたんだよね(笑)。「境遇が似てるよね」みたいな話になって。彼らは名前変えたけど。
──バンドの求心力を失ったという意味ではピロウズとも似ていますよね。
K:確かにね。あと、タイプは違うけどスカパラとか。シアター・ブルックもヴォーカルがやめたけどタイジが唄って続いてるし、意外とそういうバンドは多いよ。当時は珍しいケースかなと思ってたけど、そんなに珍しくないんだね。
──3人でジャム・セッションをして、最初から“これだ!”という手応えはあったんですか。
K:3、4曲、形になりそうなものが出来た時に“これは行けるかもしれない”と思った。別のヴォーカリストを入れることも考えなくはなかったけど、今思えば、3人ってラクだったのかも。自分以外の2人にだけ伝えればいいわけだから。曲を作っていくセッションなんかは、しやすいのかもね。
──3人の手で生まれた一番最初の曲は何だったんですか。
K:再始動してから初めて出した『TOP OF THE PARADE』(1993年7月発表)に入ってる『この世の風穴』とか、その辺だったかな。