“諦め”は心地好くて優しい言葉
──それは社会のマナーを遵守するということですか? それとも、法的にどうあれ自分だけが見定めたルールに準じて行動しているとか?
鈴木:それもありますけど、たとえばゴミはちゃんと捨てるとか。道に落ちているゴミは必ず拾うタイプなんです。でも、余りに拾い過ぎると前に進めなくなるから、ルールを決めたんですよ。自分の目の前に落ちているものは拾うようにしよう、っていう。自分の歩幅からズレたものは、仕方なく無視することにしました(笑)。
──ただ、「DA・DA・DA」の中で唄われる“モラルキチガイ”というのは、“モラルキチガイ”で何が悪いんだ!? という反語的な意味も含まれているんじゃないですか。
鈴木:そうかもしれませんけど…いつもガミガミガミガミうるさくて、自分がイヤになる時があるんですよ(笑)。もうちょっと広い気持ちでいられたらいいなと思うんですけどね。だから、自分を嘲笑っていると言ったほうが正しいですね。
──でも、嘲笑う対象である自分自身は“カッコつけるつもりなのさ”(「No.9 Punk Lover」)と時に痩せ我慢しながら一生懸命気取って見せている。カッコつけなきゃロックじゃないですからね。
鈴木:うん、ホントにそう思います。
──「グリンゲーブルス」にも“僕等いつでも 気取ってるのさ”というストレートな歌詞がありますし。この“グリンゲーブルス”とは何なんですか。
鈴木:それは『赤毛のアン』のアンが引き取られた家の屋号なんです。
──そう言えば、「Come on」にも“アン・シャーリー”(『赤毛のアン』の主人公)が出てきますよね。
鈴木:ええ。好きな本は何度も読む質なんです。『赤毛のアン』の世界も自分の身体に染み込んでいて、それがごく自然に出てくるんだと思います。「グリンゲーブルス」は最初にメロディを聴いた時の仮タイトルで、緑に囲まれて風がバーッと吹いているイメージが浮かんだんですよ。単純なメロディからの連想ですね。
──そんな爽やかな曲のイメージに“死刑台の朝食は 焼きたてのパンがいいな”という歌詞は似つかわしくないですよね。
鈴木:歌詞を書いていた時にイメージしていたのは、コロンバイン高校で起きた銃乱射事件なんです。それと、ブームタウン・ラッツの「I Don't Like Mondays」のモチーフにもなった16歳の少女による銃乱射事件。犯行理由を尋ねられた少女が「月曜日が嫌いだったから」って答えたというあの事件がふと頭に浮かんで。思春期独特のあのヘンな感じ…凄く偏っていますよね? 誤解を恐れずに言えば、その偏りさが私にも判ると言うか。ただ、私には何らかのストッパーがあるけど、ストッパーがなければあんな事件を引き起こしてしまうこともあるんだろうなと思ったんですよ。
──犯罪者になるか否かは、ちょっとしたボタンの掛け違いですよね。誰しもが罪や法を犯す危険を孕んでいると思うし。
鈴木:そう思いますよ。だから、毎日冷や冷やしながら生きているところがどこかにありますね。事件の被害者ではなく加害者になるんじゃないか、って。その違いはほんのちょっとのことのような気がしてならないし、今の自分は平和に暮らしていると思っているけれど、その反面で不安を感じる部分が常にあるんです。
──でも、鈴木さんは歌を唄う表現の場があることで心の均衡を保てていますよね。
鈴木:そうですね。表現に向かうことがストッパーになっているのは救われていると自分でも思います。
──こうして全体の歌詞を見ると、ままならぬ現実に対する静かな諦念が本作には通底しているように感じますね。
鈴木:諦めという言葉は凄くマイナスのイメージがあるかもしれないけど、私にとっては心地好くて優しい言葉なんですよ。何かを諦めたことによって、自分が今ここにいる覚悟ができたと言うか。
──消去法の末に?
鈴木:はい(笑)。でも、「No.9 Punk Lover」の歌詞にもあるように“慌てることなど なにもないのさ”と思っている。この曲のイメージは、イギリスの労働者階級の街の片隅でならず者であるパンクス達が「第九」をみんなで唄っている感じなんですよ。
笈川:アイリッシュ・パブみたいな所で呑んで騒ぎながらね。
鈴木:そう。みんな神様なんていやしないと現実を諦めていて、でも、それでもいいじゃん、カッコつけて行こうよ、っていう。その情けない感じがいいと思って。
笈川:ちょっと『さらば青春の光』みたいな感じでしょ?
鈴木:そうそう。
──スティングが演じるエースというモッズの顔役も週末だけのヒーローで、普段はしがないベル・ボーイとしてこき使われていて、その姿を見た主人公のジミーはがっかりしてしまうという…。みんな口を糊してこの代わり映えのない日常を生きていて、どうにかこうにかあくせくしているというあの映画の世界観は「No.9 Punk Lover」の歌詞にも通ずるのかもしれませんね。
鈴木:私の持っている『さらば青春の光』のジャケットは、あの映画に出てくるモッズ達が横並びに写っているんです。「No.9 Punk Lover」はまさにあのイメージなんですよ。
何事も決め切れない自分こそが自分なんだ
──総じて言うと、今回の『Good morning, Punk Lovers』はバンドにとっても大きな節目となる作品に仕上がったと言えるんじゃないですか。
笈川:うん、そうですね。今までやらなかったこと、できないと思っていたことをできたアルバムですね。自分のギターで言えば、「Good day」での“ンジャッ、ンジャッ”という裏のリズムに挑戦してうまく形にできたのは大きいです。ロック・バンドがああいうリズムをやることは、物真似で終わるならできないと思っていたんですよ。自分がクラッシュを好きなだけに、余計に。でも、今回は心底納得できるものが出来たし、できればジョー(・ストラマー)にも聴いて欲しかったなぁ…という感じですね(笑)。凄くおこがましいですけど。
鈴木:考えてみると、ジョーの映画を2本(『VIVA JOE STRUMMER』、『LONDON CALLING ~THE LIFE OF JOE STRUMMER~』)観たこともこのアルバムを作る上で大きかったかもしれませんね。特に『VIVA JOE STRUMMER』は映画館で観てワンワン泣きましたから。ジョーのあの感じ…優しくて、懐が広いところが好きなんです。自分がジョーみたいになれるとは全然思わないけど、いつまでもジョーに憧れていたい気持ちはずっとありますね。
──ところで、笈川さんのブログを読むと早くも新曲が続々と出来ているそうですけど…。
笈川:去年はほとんどライヴもできなかったし、リリースもなかったから、今年はまずこのアルバムを出してからライヴもツアーもたくさんできたらいいなと思っているんです。新曲もいっぱい作って、またリリースをしたいですし。
──その勢いなら、クラッシュの『Sandinista!』のような3枚組大作も作れるんじゃないですか?
鈴木:それは多分…いや、絶対に有り得ないですね(笑)。
笈川:その労力を考えただけでおののいてしまいますから(笑)。
鈴木:1枚のアルバムを作るだけで凄く時間が掛かるんですよ。勢いでは作れないし、基本的に疑いを掛けながら曲作りをしていますからね。“このフレーズでいいのか? 本当にいいのか!?”ってその都度自分を問い詰めているし。
──深夜に書いたラヴ・レターは翌朝に必ず読み返すタイプですね(笑)。
鈴木:間違いなく(笑)。今までは自分の中に確固たるテーマがないとアルバムを作れなかったんですけど、今回はそういうのが特にない状態で取り組んだんです。ひとつ前のアルバムに対してダメ出しをすることで次のアルバムを作れていたんですよ、これまではずっと。でも、前作の『BUGY CRAXONE』にダメ出しをするところがひとつもなくて、凄く好きな作品を作れた達成感が未だにあって…歳のせいなんでしょうか(笑)。要するに、今回はアルバムを作る原動力が最初は全くなかったんですよね。だから、本当にアルバムが出来るんだろうか? という不安が絶えずあったし、出来るんだろうけど、いざ出来上がったところで作品として本当にいいと言い切れるだろうか? という気持ちが拭えなかったんです。でも、こうして凄く満足の行くアルバムを完成できたし、今は心から安堵しています。アルバムを作るにはひとつしか方法がないと決め付けていたなと思って、それも自分にとっては良い発見でした。
──表現に携わる人は皆そうなんでしょうけど、自分自身こそが一番手厳しい批評家であり最大の敵ですからね。
鈴木:ええ。“バカなこと言ってやがるな”と自分で思うし、“そこは矛盾してるでしょ?”という突っ込みもすぐに入りますしね。
笈川:歌詞を1曲書くのにノートを丸々1冊使うんでしょ?
鈴木:うん、普通に使う。
──今のブージーの歌詞には、矛盾している自分を許す寛大さがあるように思えますけど。
鈴木:そうですね。決め切れない自分こそが自分だし、臆することなくそのことを真正面から書こうと。結局はそこに辿り着くしかなかったと言うか…。
笈川:…やっぱり、歳のせいなのかな?(笑)