中立の立場が一番自分らしくいられる
──『Good morning, Punk Lovers』の収録曲は、結果的にこれまでになく長いタームで練り上げたものが多いわけですよね。
鈴木:そうですね。怒髪天と回っていたツアーで既にやっていた曲もあるし、その前の年に新宿ロフトのワンマンでやった曲もあるし。
──前作同様、1曲ごとの精度を上げることに特化したアルバムと言えますよね。そのアプローチをよりラフに、よりストレートに打ち出したと言うか。演奏もいい具合に肩の力が抜けた感じで、それが好作用していると思うんです。
鈴木:肩の力が抜けたと言うよりかは、自分の中で有りか無しかで無しにしていたことに挑戦してみたかったんですよ。これは無しだな、と決め付けて狭めていた幅を有りにして広げたかったんですよね。それは理由が2つあって、ひとつはバンドとしてライヴに一定の自信を持てるようになったこと。もうひとつは全く逆で、一個人としては“もう降参”って言うか…。これまでは偏らせなければいけないっていう感覚が自分の中に凄くあったんです。ラモーンズで言えば8ビートの曲しかやらない、本当は他の曲もできるけどやらない、というような。自分でもそう在るべきだと思っていたんですけど、私はそういう音楽の突き詰め方ではないのかもしれないと考え始めたと言うか…薄々気付いていたけど、“いやいや、まだまだ!”と突っぱねていたところがあった。でも、もっと自分らしいところをいい加減直視してもいいんじゃないかと思うようになったんですよね。
──いつの間にかブージー・クラクションの鈴木由紀子を必要以上に演じるようになっていた、ということですか?
鈴木:いや、ロックを突き詰めようと躍起になっていたとでも言うんですかね。歌詞の面で言えば、基本的に弱音を吐かないというのがずっとあったんです。泣き言を歌詞にしないと言うか。でも、自分はやっぱり中間の人間なんだと思って。今までは右か左かどちらかに振り切らなければいけないと考えていたんですけど、右に行っても左に行っても居心地が凄く悪かった。じゃあ、もういいやと。常に中立でいよう、それが一番自分らしいなと。そう思えるようになって、歌詞でもそこをちゃんと書こうとしたんです。3曲目の「Good day」に“「yeah!」なんて僕に言うな 僕は全部知ってるんだ”という歌詞があって、そんな負け惜しみを言葉にするなんて以前なら考えられなかったことなんですよ。
──そうした境地に達したのは、何がきっかけだったんでしょう。
鈴木:何年もバンドをやってきていろいろと気付くことがあったし、もっと伸び伸びと歌を唄おうと思ったんです。前作のツアーを回っている時に、「もっと歌の響くアルバムを作りたい」ってメンバーと話していたんですよ。ただ、そこもやっぱり中間で、誰が聴いてもいいメロディなんてどんなものかはっきりと判らないし、かと言って凄くサウンド寄りになるわけでもない。1曲の構成でも、ギター・フレーズの比重が少しでも多くなれば歌がそっちに寄るだろうし、その中間のちょうどいいバランスを探すのがブージーのオリジナルなんだなと気付いたんですよね。
──そういう意味での中間、中立というスタンスは、己の資質に忠実であろうという真摯な姿勢の表れと言えますよね。
鈴木:まぁ、ひとまず安心はしていますね。そんなスタンスで曲が出来て歌詞が出来て、自分で聴き直しても素直にいいと思えたし、いろんな意味で理想的なものが作れたからホッとしています。
──「今回のアルバムを作るにあたって、笈川節がとても重要になると思っていた」と鈴木さんが本作の資料で言及していましたが、この“笈川節”とは具体的に言うとどんなものなんでしょうか。
鈴木:それも前作のツアーの時から思っていたんですけど、ヘンだと判らないヘンさがあるって言うか。突飛なたとえですけど、昼間に街中を裸で歩いていたらヘンじゃないですか? それが笈川君の場合、普通の格好をして歩いているのにどこかヘンなんですよ(笑)。ストリングスを入れて、如何にも“泣かせます”という感じにしない泣きの曲を作ると言うか。じんわり来るタイプの曲でも、どこか懐かしくて知ってる肌触りがあるんですね。そういう笈川君の作るメロディや雰囲気を主軸に置いたアルバムにしたかった。バンドのアレンジは常に笈川君が中心となっているから、そのアレンジ力を最大限活かしたかったんです。
──笈川さん自身は“笈川節”をどう捉えていますか。
笈川:どうなんでしょうね、別に極端なことをするわけでもないし…。前作の時は4人の個性が横並びになったアルバムを作りたかったんですよ。だからジャケットも4人が均等に並んだものにしたし、歌もひとつの楽器として存在していたんです。今作は由紀ちゃんの歌なり、詞なり、メロディをもっと真ん中に引き寄せたかったんですよね。4人全員が同じ背丈じゃなくてもいいバランスって言うか、そこを今もちょっとずつ見つけ出している感じですね。
喜怒哀楽のどの感情からも微妙に距離を置く
──そうした意識の変化は、2、3周したツアーで培った成果なんでしょうね。
鈴木:そうですね。私の場合、ヴォーカルというポジションから逃げていたなと思って。やっぱり真ん中にいるわけだし、ちゃんとヴォーカルというポジションを背負わないとダメだなと。
──その決意の表れが本作ではヴォーカルに如実に出ていると思いますけどね。潔く堂々と“クソったれ!”と吐き出していると言うか。
鈴木:そうですか?(笑) 昔のほうが“クソったれ!”と思っていたかもしれない。今は余りその渦中にはいないかもしれませんね。喜怒哀楽のどの感情からも微妙に距離を置いていると言うか、激しく怒ったり激しく笑ったりすることを今は好まないかもしれないです。1曲目の「Come on」の中にある“言いたい事全部話すって 楽らしいけどちょっと苦手さ”という歌詞はホントにそうで、本来はそんなことを敢えて口にしなくてもいいわけじゃないですか? そういう気持ちを歌の真ん中にした曲があってもいいし、そういうことを唄うバンドがいてもいいよなって言うよりは、もうしょうがないって言うか、そうするしかない。それがさっき言った“降参”なんですよ。言いたいことがないとも言えないし、言いたいことがあるとも言えない。基本的に消去法的発想なんですよ。これでもない、あれでもない、じゃあ何? って言われて、うーん、と考える。“こんな感じ”っていう選択肢はあるにはあるんだけど、それは言葉として主張にすらならない。そういうところを音楽にしているんです。
──主張にすらならないけど、日常生活の中で誰しもがふと思うことを平たい言葉で歌詞にしているから、凄くリアルで説得力があるんじゃないですかね。
鈴木:それはあるかもしれませんね。生きるとか死ぬとか極端なことを歌詞にするよりは、生きたいのか死にたいのかわかんないって書いたほうが私は凄くホッとするんです。
──札幌にいた頃を思い出して書かれたという「FAST」の中に“やっぱりまたここか”という歌詞がありますけど、誰もが抱える日常の閉塞感、行き場のない堂々巡りを端的に言い表していると思いますよ。
鈴木:東京に出てきてバンド中心の生活を始めて、いろんなことに挑戦して、考え方も日々変わっていって、いろんなものを築き上げてきたのに、やっぱりまだここにいるんだ、結局また同じことなんだ…そんなことを、このアルバムを作る前に強く感じていたんですよ。自分は成長した気でいたけど、結局何も変わっていないじゃないかっていう。愕然としましたけど、その思いを曲にできて良かったと思っています。
笈川:由紀ちゃんの書く歌詞には、単館でやっているフランスの短編映画っぽいところがあると言うか、じわじわ来る感じがどの曲にもあると思いますよ。
──その歌詞を活かすサウンドのアンサンブルは有機的に溶け合って、躍動感に充ち満ちていますよね。笈川さんのギター・プレイが冴え渡っているのは言うまでもなく、今回特筆すべきはボトムを支える旭さん(旭 司、b)とモンチさん(ds)の確かな演奏力だと思うんです。
笈川:2人とも特訓していましたからね(笑)。前作を作り終えた後に自分のプレイについて各々思うところがあったと思うし、それを自覚して行動に移し始めることができたんじゃないですかね。前作のレコーディングの時は、旭君が大袈裟に言えば“化けた”んですよ。その意味で今回はモンチが“化け”て、ひとつ山を越した気がするんです。
──硬質なリフでグイグイと引っ張っていく「How are you?」や「Hello」といったシンプルでストレートな楽曲では特に、ベースとドラムの堅実なプレイが光っていますよね。
鈴木:確かに、モンチは最近凄く頼もしいんですよ。
笈川:みんな少しずつ、でも着実に進歩していますから。「くたばれ センチメンタル」は旭君が持ってきたフレーズを中心にアレンジを固めたんですけど、そんなケースは初めてでしたからね。初めて持ってきた曲だから歪なところはいっぱいあるんだけど、その歪さが面白いんですよ。自分では絶対にそういう曲は書けないですし。
──モンチさんが曲を持ち寄ることはまだないですか?
笈川:持ってこようとしていますよ。家からギターを持ってきましたから。まぁ、まだ当分掛かりそうですね(笑)。でも、個人的に凄く楽しみにしていますよ。
──素朴な疑問なんですが、「Come on」や「How are you?」では“あたし”、「Good day」「くたばれ センチメンタル」「グリンゲーブルス」「DA・DA・DA」では“僕”と、歌詞の一人称を書き分けていますよね。これは鈴木さんの中にある女性っぽい部分と男性っぽい部分がそれぞれ表出する度合いに応じて分けているんですか。
鈴木:いや、完全に曲に準じています。どっちを使ったほうが人間くさくなるかな? というのが判断基準なんです。性別に関係なく1人の人間であるというところを表現したいので、男っぽく見えるのも女っぽく見えるのも避けているんですよね。