バンドブームからの影響
──『武蔵野ブレイクダウン』はかなりBOφWYを意識して…。
町田:(笑)バンジーの時にBOφWYやりたいって言っても通るわけないから、今回は自分の引き出しにあっても敢えて挑戦しなかったことに挑戦したんです。歌い方もそうだし、その曲は完璧にその時代の人たちへのオマージュですよ。
──詞の中にある語尾の「サ」の使い方もね(笑)。
町田:そうそう(笑)。完璧に、83~85年のJ-ROCKの…。
──その時代ってまだ幼稚園とかですよね?
町田:でも自分にとって懐メロなんですよ。俺が小さい時に親戚の人がロックにはまっていて、BOφWYとか聴かせてくれたりしたんです。あと3つ上のアニキがBOφWYやBUCK-TICKが好きだったから自然と影響されているというか…。
──『歌舞伎町へようこそ』(M-6)も。
町田:これはモロロカビリーの曲を作りたいと思ったんだけど、バンドでやったらそんなにロカビリーっぽくもなくなった(笑)。元々はバンドブーム時代にいたロカビリーバンドへのオマージュです。
──町田さんのお客さんって若い人が多いから、わかるのかなって思いますけど。
町田:いや、わかんないからいいの。わかる人は笑ってくれればいいし、BOφWYも尾崎(豊)も知らない人には斬新だと思う。それが狙いなんです。
──別に尾崎とかBOφWYのファンに向けてるわけでは…?
町田:全然(笑)。このアルバムを通して僕はこういう音楽を聴いてきたんですよって知ってもらいたいんです。特に意識してないですね。
──今まで影響を受けたバンドというのは?
町田:当時のバンドブームのバンドはかなり影響受けてますよ。
──自分がその時代を過ごしたかったと思います?
町田:思いますよ。その時に聴いていたバンドってすごくかっこよく思えたし、それから音楽を聴いていくようになると感じ方は変わってきたけど、自分にとってはそれがロックだし、その人達がロックスターだし、日本で一番ロックンロールがイキイキしていた時代なんじゃないかな。ロックンローラーがロックンローラーしてた。ロックバンドというと最高にキザでかっこつけてて、マイクとか斜めに持っちゃって、やたらアツくてっていうことだと思っているんですけど。かっこつけたくて目立ちたくて、野心もすごくあったんだと思う。それですごくモテて(笑)。
──その時の人に影響を受けて、バンドをやってモテました(笑)?
町田:全然ない(笑)。バンドやってなかったよりは、やってたほうがモテるのは間違いないけど、根本的の人間性が変わらない限りは、モテるキャパシティは今最大限でそれ以上はない。本当にモテるヤツは何やってもモテるんだよ。女心をひく才能と音楽の才能とは別ですよ(笑)。でも音楽やってないよりかはモテた(笑)。このインタビュー読むバンドマンもそこには希望を持って欲しい。もともとモテない人が音楽をやることによって多少はモテる(笑)。あとモテてたとしてもそれに気付かなかったりするから。僕も毎日ウハウハなぐらいモテてた時期があったのかもしれないけど、元々モテないからそれすら気付かない。
──(笑)ということは、町田君は純粋に音楽が好きで10年間突っ走ってきたと。
町田:そうそう、基本的には音楽が好きで自分をアピールするのが好き。それプラス、モテたらいいな(笑)。ただ+αのモテるは思ったよりなかったな(笑)。
1人で音楽やってるんじゃないんだなって1人になってみてわかった
<ここで高原さん(エンジニア)と横山さん(ベース:fromテルスター)が参加>
──アルバムの13曲は、ソロでやってた曲のバンドバージョンとアルバムのために作った曲ですよね。
町田:アルバムのために作った曲は『東京ファック』『武蔵野ブレイクダウン』『TEENAGE DISTRUCTION』の3曲だけですね。ファーストは集大成的な「これが町田直隆です」っていうものを作りたかったんです。
──『さらば××××ランド』は町田さんを象徴する曲だと思ったから、入るかと思ったんですが。
町田:シリアスな部分とシニカルな部分があると思いますけど、『少年』『拝啓ロックンロール』『オリオン座流星群』はとことんシリアスを突き詰めていって、シニカルな部分として『歌舞伎町へようこそ』『絶望ファンクラブ』。シニカルな部分の象徴が『さらば××××ランド』だから敢えて入れなかったんです。あと、権利関係で訴えられてもめんどくさいし(苦笑)。
──ソロの曲を改めてバンドで演奏してみていかがでした?
町田:全然違うのが楽しいですね。『少年』はバージョンが全然違うから、『少年』のデモCDを持ってる人も楽しめると思う。バンドになって全部化けたね。全然違う曲になった。『バイバイ若草荘』は一番古い曲だけど、レコーディングしている時はこうなるんだって自分でもビックリしたし。
──全体的にバンドサウンドに合う曲になりましたね。高原さんはけっこう大変でした?
高原:サウンド的にもほぼ順調にいって、そんなに悩まなかったかな。完全に根本からやり直したのは『バイバイ若草荘』だけだもんね。
──レコーディング期間が半年で、意外と時間をかけたのかなと思いましたが…。
高原:半年かかってるけど、スタジオに入ったのは全部で20日間しかないんです。メンバーそれぞれ別のバンドをやってるから、スタジオの交渉とメンバーのスケジュール調整が大変でしたね。
──レコーディングをしながらライブもやると、曲のイメージってどんどん変わっていくかと思いますけど。
町田:確かにそれはありましたね。膨らみ過ぎちゃうと言うか。本当だったら、もう少し短い期間でやったほうがぶれることはない。でも最終的には行き着くところに行き着いたから良かったですよ。
──町田さんにしたら何年ぶりのフルアルバムですか?
町田:2005年の夏にバンジーで『CRUITHNE』を出して以来ですね。大変だったけど、これから音楽を続けていく上ですごく勉強になりましたよ。チラシを作るということでも、今までは人頼みだったことが、最終的な責任は全部自分が負わなければいけない。やらなければいけないことがいっぱいあって、そういうことも含め、本当に1人で音楽やってるんじゃないんだなって1人になってみてわかった。たくさんの人が関わってくれて、1枚のCDができるし、1回のライブができるんだなって。10年目にして痛感しましたね。
横山:今回は仕事とか考えないで町田君の元に集まった人たちが1枚のCDが作り上げられたというのは感慨深いですね。そういう繋がりも音源から伝わってくるんじゃないかなと。
町田:CD作るなら協力するよって友達や仲間が集まってくれて、そういう人たちがいなかったら作れてなかった。だからすごく感謝してます。仲間がいてくれるのも、自分が音楽を続けていったからだと思うから、そこにも集大成が込められてますね。
──10年の歴史があるからですね。
横山:まあ、僕はバンジーの第一印象はすごく悪かったけど(笑)。
高原:僕も悪かった(笑)。バンジーの作品3枚作ったのに、3枚目を作り終わった時点でまだ嫌われてるなって思って、友達に相談したぐらいだもん。「今レコーディングしているバンドのボーカルにすごい嫌われてるんだけどどうしたらいいんだろう」って(笑)。
町田:(笑)何も考えてなかったんですよ。