堀辰雄の人生を参考にしたかった
平野:でも、リザードはその前に下北ロフトとか荻窪ロフトでちょくちょくやっていたんだよね?
地引:いや、新宿ロフトが一番最初ですよ。東京ロッカーズとしてはね。その前の年の9月に新宿ロフトに出ているはずなんだけど、なぜか当時のスケジュールにも名前が載っていないんだよ。
モモヨ:ひとつのバンドが10人、20人と客を呼んで、そんなバンドが5つもあればかなりの人数を呼べるわけじゃないですか。紅蜥蜴(リザードの前身バンド)も多少は名前があったし。東京ロッカーズの始まりは、それで動員できてイヴェントとして成立するかどうかという試みだったわけですよ。今はどこのライヴハウスでも当然の形でやっているライヴの形態がそこで初めて試されたんです。ジャン・ジャック・バーネル(ストラングラーズ)が方法論として私達に言ったのは、例えば数万人の前でライヴをやっても伝わらないだろう、と。だったら、100人規模のパブでもどこでもいいからきちんと伝えてサーキットすればいい、って。1回で50人集まれば、10回やれば500人。それでどんどん増えていくだろう? ってジャン・ジャックが繰り返し言っていたんですよ。
地引:最初は六本木のS-KENスタジオでライヴをやっていたんだけど、そこが使えなくなるからっていう時にロフトに行って、関西のツアーをやったりとかした。最初はバンド主体ですべてが動いていたんですよ。僕はただそれを手伝っていただけだから。ごく一定の限られた人達だけで始まったムーヴメントだったけど、それが大きく広がっていったのはロフトとの繋がりができた辺りからなんです。
モモヨ:オムニバス・アルバム『東京ROCKERS』のレコーディングもロフトでやって('79年3月11日『東京ロッカーズ ライヴ・レコーディング』)、リザードのデビューの時もロフトでギグをやらせてくれたしね('79年12月1日『鋼鉄都市破壊指令1201 アルバム発売記念』)。
平野:それは間違いなく、他に出るバンドがいなかったんだよ(笑)。
モモヨ:そんな理由だったんですか(苦笑)。あの頃は、それまで動員力を誇っていたハード・ロック系のバンドが徐々に下火になっていた時期だったんですよね。そんな頃に私達はライヴをやる場所がなくて、ロフトも相手にしてくれて(笑)、ちょうどいいタイミングだったんでしょうね。
平野:そう言えばモモヨは昔、平気で客を蹴っ飛ばしたりしていたよな。
モモヨ:だって、そうしないとマイクを取られたり返してくれなかったり、客も凄かったんですよ。2コーラス目に歌が入るのに手を握って離さないとかね。僕は自分からダイヴしたことはないですよ。足を掴まれて危ないからダイヴして、客が戻してくれる感じなんです。足を引っぱられながら唄えないじゃないですか(笑)。
平野:今日はモモヨが如何に哲学者であるかを紐解いていきたいんだけど、僕が意外と思ったのは、モモヨは堀辰雄が好きなんだよな。あんなメルヘンチックな世界が好きなの?
モモヨ:堀辰雄は'81年くらいからずっと読んでいましたよ。彼は16歳くらいの時に天才と呼ばれて芥川龍之介が面倒を見ていたんですけど、その頃にはもう澁澤龍彦が唱えていたような象徴主義とかモダニズムとかを卒業しちゃってるわけです。戦時下の不安定な時代の日本の中で、安易に時流に迎合しないで生きていこうとするのがその後の話で、そこに凄く興味がある。なんで堀辰雄に興味を持って強烈に深く入り込んだかと言うと、ロック・ミュージシャンには人生の歩き方を提示してくれる前例がない。そうすると、他に似たような人がいないかと前例を探るわけですよ。それで、芥川がぼんやりとした不安を抱えて死んだ頃の文学者に私は一番親近感を覚えたんです。将来が見えないから芥川も死んだんですよ。原稿料も異常に安かったし、定期的に全集が出たわけじゃないし、常にあぶく銭で食い繋いでいく状態。結局、堀辰雄自身は作家として成功できなかったわけです。むしろ立原道造、中村真一郎、福永武彦達の面倒を見たことで名を成した。そんな堀辰雄の人生というものを参考にしたかったというのが大きな理由としてあるんですよ。
平野:福永武彦は僕のライフワークで、彼の作品を読んで僕の文学の歴史は終わったという意識があるんだけど。堀辰雄も、福永武彦も、芥川龍之介も絵が浮かんでくる文章だよね。
モモヨ:私も福永武彦辺りが一番リアルタイムで読んでいましたよ。ただ、人生を探るには堀辰雄が判りやすかった。何事も先駆を付けてはやめていったというところが、凄く性格が似ていると思ったんです。
平野:でも、僕には堀辰雄とパンクがどうしても結びつかないんだよ。「サ・カ・ナ」という曲にしたってそうだったと思うけど、社会を斜めに見てブッた斬った最たる人だったじゃないですか、特にモモヨは。
モモヨ:でもね、「サ・カ・ナ」を唄っていた時はひとつの時代がもう済んでいた。水俣病で原告は敗北していたから、「何で今さらそんなことを唄うんだ?」と言われたことも多かった。でも、そんなことを言われる状況だからこそ敢えて唄ったというのが「サ・カ・ナ」にはあるんですよ。
















