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INTERVIEW

トップインタビュー【復刻インタビュー】山部''YAMAZEN''善次郎(2007年1月号)- 音楽都市・博多の伝説的ミュージシャンが語る博多ロック・シーンの系譜

音楽都市・博多の伝説的ミュージシャンが語る博多ロック・シーンの系譜

2007.01.01

アクシデンツを聴いて音楽への思いが再燃

05_ap02.jpg──同郷の仲間が次々とデビューを果たす中で、山善さんは'83年にシングル『キャデラック』をリリースするまで長い沈黙期間がありましたね。

山善:そう。あれはね、一度音楽に挫折して、冬眠期間やったけん。24歳の時に松山でウチの親父が紙問屋しよったけん、1年間行っとうたですよ。その頃に陣内(孝則)がロッカーズでデビューして、「山善さん、『キャデラック』ば録音して良かですか?」って連絡があって。森山もモッズとしてデビューするって火山の絵葉書をくれたけど、俺はどうも思わんかった。音楽に対して完全に諦めとったわけ。ところが博多に戻ったある日、FMラジオばつけたら原島が唄いよる。「エーッ!? 何やてぇ! 原島が唄いよるなんて! もっかい音楽するぜ俺!」ってすぐに思ったけんね(笑)。

──じゃあ、原島さんのアクシデンツがいなければ、山善さんが復活することもなかったわけですね。

原島:それ、ホントの話なの?

山善:ホントよ。「イカしとうねぇ、原島!」って思うとった。あの時「雨のメインストリート」を聴いてなかったら、今に至るまで唄ってないけんね。俺は原島の若い時しか知らんけんさ、それ以降はウチのドラムやらベースが面倒見よったけんね。アクシデンツがジュークレコードからインディーズで出してたから、その流れでジャンピング・ジャム('80〜'86年まで2年おきに福岡で開催された音楽イヴェント)に殴り込みした、と。

原島:それがオムニバスの『JUMPING JAM 〜rebel street III〜』に収められた「Hey Hey Stop」になるわけ。俺なんて丁稚奉公から入っとうけん。アクシデンツの他のメンバー……後藤(昌彦/g)と樋口(博/g)は元々ロッカーズだったりモッズだったり、秀ちゃん(宮本秀二/ds)もモッズだったりロッカーズだったり、克さん(井上克之/b)は言うまでもなく元ドリルのメンバーで、俺以外はみんな福岡ではそれ相応の技術も知名度もある人間ばかりだったんだから。

山善:その井上克之が言うよったけど、松本(康)さんがジュークレコードをオープンした時にアクシデンツが挨拶しに行って、その時に原島が松本さんに「今からロックは年功逆列で行きます」って言うよって(笑)。凄いよねぇ、パンクよねぇ、原島はやっぱり(笑)。

原島:いやいや、怖いモン知らずやったっちゃねぇ、俺もね(笑)。俺も克さんという人がおらんやったら今この場におらんっていうのがあって。ロッカーズがラスト・ライヴか何かで80's factoryに帰ってきた時に、打ち上げでワーッてなりよったわけ。そん時に俺がスネークマン・ショーの真似したり、笑わせて場を盛り上げよった。それを見た克さんが「お前、なんか山部のごたるねぇ。お前、歌唄うてみらんや」って言われたんやった。それで「これ唄ってんみやい」って20曲入りのカセットを渡されて。その克さんっていう人も凄いっちゃんね。山善がストーンズなら克さんはビートルズ。ビートルズの曲は全部ソラで唄えるっちゃけん。そこからもう、教えられる教えられる(笑)。あと、山善とバンドやってた角野さんって人は一時期アパートの横に一緒に住んどっちゃったけど、毎日ソウルやけん。黒人になるっちゅうよ! 「ホントに勘弁してやってん」って言ったもん(笑)。

山善:博多にはそういう伝統があるわけよ。ロックの魂ば下の世代に伝えるべく、先輩が後輩を叩き上げて一人前にしていく。俺も柴山さんや鮎川さんからも叩き上げられたったい。

──まさに音楽の闘魂伝承ですね。酒の呑み方からケンカのやり方まで含めて(笑)。

山善:そうそう。まずケンカの売り方から始まってね(笑)。

──ルースターズの大江慎也さんも鮎川さんにギターの手ほどきを受けたと語ってましたよね。

原島:花田(裕之)もそうだしね。そういう上からの淀みない流れが脈々とあるんやね。

山善:なぜルースターズがって言うたら、鮎川さんが結婚して北九州の若松に住んだでしょ? ああいうことも大きいよね。

原島:そうそう。鬼平(坂田紳一)さんも当時北九州で喫茶店をやっとって、そこに「サンハウスの人がおるけん」ってみんなで会いに行ったりしよったり。

山善:アップビートの広石(武彦)とかもそうやった。もう全部繋がるとて。

原島:広石くらいまでが博多のロック伝承の最後の世代やったね。

山善:175Rとかは全然違うけん。

原島:そりゃあもうエラい違いすぎるけん(笑)。175Rとアンタ、どんだけ離れてんの!? っちゅう話(笑)。

新宿ロフトでのイヴェント“LIVE 092”

05_ap03.jpg──'84年に九州で活動している新進バンドを紹介する企画“LIVE 092”を新宿ロフトで立ち上げて山善さんを呼んだのは、当時の店のスタッフだったんですか?

原島:いや、もちろん柏木省三(当時、ルースターズのプロデューサー兼マネージャーを務めていた)ですよ。まぁ、確かに柏木さんに関してはいろんな話があるとよ。ただ、プロデューサーとしての音楽的視点と実験的な要素を採り入れる感覚は稀有な存在だったと俺は思う。

山善:誰も怖くて近づけんやった山善のファースト・アルバム『DANGER』をプロデュースしたのも柏木さんやったしね。

原島:そうそう。『JUMPING JAM 〜rebel street III〜』に入ってる「Hey Hey Stop」を無理くりねじ込んだのも柏木さんやった。あれが世にちゃんとした形で初めて出た山善の音源なんやけど、他は全部ライヴ音源で、山善だけスタジオ・レコーディングやもん。ある意味、プレミア・ボーナストラックみたいに入っとるけんね。みんなライヴなのに、あからさまに音が違うっちゃもん(笑)。

──そんなエピソードからも、山善さんの特異な存在感が窺えますね。

原島:山善は、サンハウスからモッズ、ルースターズ、ロッカーズ、アクシデンツ…俺達を含めておるとしたら、3世代を繋ぐジョイントの役目を果たしてくれたし、常にそこは意識させられとったって言うかね。

山善:原島達が東京へ出て行った後にイカ天ブームとか来るでしょう? そん時も俺は博多でさらに下の世代の連中とのジョイント役を一人で踏ん張ってやってたんよ。

原島:そんな山善だからこそ、アンジーの水戸(華之介)も山善から「このバンド凄かねぇ!」って認められた時は嬉しかったって言っとったよ。俺も一番最初にアンジーを観に行ったのは、さっき話した克さんの誘いがきっかけやったからね。「原島、面白いバンドがいるけん観に行こうや」って言われて連れて行かれたんだから。だからホント、山善っていろんな面でのジョイント役なんよ。柴山さん達は俺達の世代にとって神だから存在が余りにも遠すぎるし、森やんや陣内さん、ルースターズの面々もそうやったけど当時は自分達のやることが第一に入っとるけん、人に伝えるどころやなかった。そこを山善がいいパイプ役になって、博多の音楽シーンの灯を消さずに守り続けてくれた。

山善:柴山さんもシナロケも東京に行って、モッズやロッカーズ、ルースターズまでが後に続いた。そうなると博多にムーヴメントはなかったもん。完全な空洞化やね。そこを踏ん張って盛り立てたのが原島達のアクシデンツやった。

──新宿ロフトで行なわれた“LIVE 092”は、どんな感じだったんですか?

原島:そりゃもうインパクトは凄かったよ。噂を聞きつけた連中がみんな観に来たけんね。

山善:バンドマンばっかしね(笑)。まこちゃん(鮎川誠)も来とったし、大江もおるしね。もうみんないた。

原島:今でも語り草になっとるけど、あの“LIVE 092”に出演した博多の人達のエネルギーはとにかく凄まじかったね。あの時期のロフトは九州のバンドにとっちゃホームみたいな感じやったけんね。

山善:一番最初のロフトは柏木さんが組んだ2デイズで、宿はスターホテルを取ってもろうて。後でシーナからイヤミを言われたですよ。「山善、お前ね、最初からホテルなんか泊まって! 私達なんか深夜喫茶で朝まで過ごしたことあるのよ!」って(笑)。打ち上げの席で、酔っとったルースターズの下山(淳)に絡まれたこともあったねぇ(笑)。「俺は山形だからライヴがしたくてもライヴハウスがないんだよ! 山善達は博多という街に甘えてるんだよ!」って(笑)。甘えとったちゃあ、生まれとうけんしょうがなかとね。まぁ、そう言われただけでどうもなかったけど。ああいうまっすぐな気持ちが下山の芯にはあるっちゃね。その芯の太さが最後までルースターズを支えた原動力としてあったんやろね。エラいと思うよ。俺は好きやね、下山のこと。

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