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INTERVIEW

トップインタビュー【復刻インタビュー】HIGH VOLTAGE(2006年12月号)- 東京初ワンマン敢行記念! メンバーが語る「我が人生至上のライヴ」

東京初ワンマン敢行記念! メンバーが語る「我が人生至上のライヴ」

2006.12.01

渾身の2ndミニ・アルバム『SPIRAL』を先月末に発表し、来年1月に東京では初となるワンマン・ライヴを下北沢SHELTERにて執り行なうHIGH VOLTAGE。これを記念して、メンバー各自がこれまで観てライヴの中でとりわけ感銘を受け、深く心に刻まれたものを存分に語り倒してもらった。当時を回想して熱っぽく語るメンバーと同様に、SHELTERのワンマンが参戦するオーディエンスにとっても後々強い衝撃を与えた壮絶な一夜として記憶に残ることを切に願う。(text:椎名宗之)

酒とブルースを教えてくれた老齢の大御所ブルースマン

13_ap01.jpg高橋大望(vo, g):自分が最も感動したライヴと言えば、2000年に北海道のブルース・バー「ブラウニー」で観たフレディ・リーです。彼は大御所のブルースマンで、その当時で80歳近くだったと思います。

自分が初めてブルースに出会ったのは高校生ぐらいの時、その時はジョニー・ラングやケニー・ウェンシェパード、はたまたジョンスペなどが流行ってたり、クラプトンが「チェンジ・ザ・ワールド」出してブルース・ロックが再評価されてた時に僕はブルースを知りました。しかしその時はロバート・ジョンソンやB・B・キングみたいな古いブルースを聴いても余り興味が持てず、スティーヴィー・レイボーンやZZ TOPなどのブルース・ロックばっかり聴いてました。そして俄か仕込みのブルース知識で知ったかぶりをしながら大学生になったわけです。

大学生の時に音楽サークルに入ったのですが、そのサークルのOBの方でブルース・バー「ブラウニー」を経営してる方がいまして、ちょくちょく手伝いに行ってました。そしてある日、フレディ・リーという本場のブールスマンが来るからちょっと手伝ってくれとのこと。本場のブルースを観るのは初めてだったので行くことに。しかし聴いたこともないし、つまらなかったら嫌だな〜なんて思ってましたが、音を聴いた瞬間そんな不安はふっ飛びました。しゃがれた声は深く胸に染みて。へたくそでボロボロの安ギターからは悲しさを奏で。音に魂が宿る瞬間を目の前で感じました。彼がマディ・ウォーターズの名曲「スイート・ホーム・シカゴ」を演奏した時に不覚にも涙が出てしまいました。

その時、僕はまるで広いアメリカで悲しみの雨に打たれているような気分。いや! 多分この空間にいるみんながアメリカにワープしたようでした。ブルースは青じゃなく蒼なんだな、悲しみの蒼なんだと気づきました。そして打ち上げで僕は、「どうやったらあなたみたいに魂を込めたギターや歌を唄えるのですか?」と尋ねました。そしたら80歳近くのフレディさんが笑いながらジャック・ダニエル片手に、
「こいつをたくさん呑め、そして吐かないためにチーズも食べるんだ」と言いました。

僕は、なんてカッコイイんだ! つまりフーチークーチー・マンになれってことだなと勝手に予想。この時から僕の酔っ払い人生がスタートしました。そしていつもジャック・ダニエルを呑むと、この日の感動を思い出してしまいます。これが僕に酒とブルースを教えてくれた思い出のライヴです。

THE HIGH-LOWSを観て自分を表現出来ることの素晴らしさを知った

13_ap02.jpg佐藤弘坪(g, cho):HIGH VOLTAGEギター佐藤弘坪が今までで一番衝撃を受けたライヴは1995年12月22日札幌ファクトリーホールで行われたTHE HIGH-LOWSのLIVE。

初めて衝撃を受けたLIVE。そして生まれて初めて行ったロックのLIVEだった。俺はまだその頃中学3年生で(現在25才大殺界)キャパ500位の箱なんだけど俺にはすごくデカく感じた。かなり昔のことなので詳しいことは覚えていないが、何て説明したらいいんだろうあの衝撃とその後の衝動は。甲本ヒロトと真島昌利が目の前に出て来た時、本当に神様みたいに見えた。「ミサイルマン」や「スーパーソニックジェットボーイ」などの1stアルバムが出るか出ないかって頃のライヴだったから、曲目もその中の内容で、今でも覚えているのが、「ママミルク」という曲のセッションだった。その頃の俺はライヴっていうのは曲をCD通りに演奏するもんだって思ってて、間奏でギターやハープ、ベース、キーボード、ドラムが一体となって遊んで音のキャッチボールをしてた。それも凄く楽しそうに。最初は何がなんだか判んなくてポカーンと観てたんだけど、段々自分の中で熱くなって最後には飛び跳ねてた。

自分ごとで恐縮ですがHIGH VOLTAGEの「DUSK」という曲で僕らもそういうセッションをしていて、その場の雰囲気で曲を長くしたり短くしたり、テンションを上げたり下げたり音のキャッチボールをしてる。その瞬間は曲をいつも通りに演奏する楽しみとは別の楽しみ方があって、なんて説明したらいいかな。演ってる人にしか判らない瞬間なんだ。「おっ、そういう風に来たか」とか「じゃあ俺はこうやってやろう」みたいなやりとりが楽しい。とにかく楽しい。本当にキャッチボールだと思う。長くなってすみません、話を本線に戻します。

あと印象的だったのは「バナナボートに銀の月」という曲。これは知ってる人は知ってると思うけどマーシーが唄ってる曲。俺はマーシーの声が大好きで、彼の叫び声だけでご飯3杯はいけるね。あの声になりたくてウイスキーでうがいしたりもした。でも結局俺声が細いからあんな声にならなくてショックだった記憶がある。正味1時間半くらいの演奏だったと思う。帰りにリストバンド買って外に出たら、外は氷点下だから体中から湯気を出しながら友達とどこがかっこよかったとか今度はいつ来てくれるのかなとかとりとめのない話をしながら帰り道を歩いた。ライヴが終わったことに少し寂しさを感じながら。

そして俺の中で何かがはずれた。何がはずれたんだろう? 人生のタガ? それまでは学校で勉強してもスポーツやっても何でも中の上くらいで、「どうせこんなもんだよな」なんて思いながら日々を過ごしてた。学級委員とかやって、先生の言うこと聞いてりゃ何とかなるだろみたいな。俺以外の人間はすべてロボットだと思ってたし。人に対する思いやりなんてこれっぽっちも考えたことがなかった。今考えると一番タチの悪いクソガキだったなー。音楽もホント聴いてなくて、親にCD買うんなら勉強道具の一つでも買えなんて言われててしょうがないからラジオを聴いてかっこいいバンドいたらテープに録音して聴いてた。

だけどあのライヴに出会ってから変わった。なんかこのままじゃつまんねぇな俺。あの2人みたいになりたい! 胸の中がぐっと熱くなってずっとそれがとれなくて、眠れなくて、一人で夜中に騒いだりして、天井に頭ぶつけてそれで親に怒られたりして。自分を表現出来ることの素晴らしさや面白さを感じ始めてたんだと思う。ギターが上手いとか歌が上手いとかそんなことじゃなくて、立ち振る舞いや、気持ちとか気合いとかそういう目に見えない心の中をぶちまけるだけで音楽は出来ると思った。それが俺の初期衝動。

その頃はパンツマンズというバカなバンド名でバンドを始めたばかりで、札幌の琴似のパトスっていうライヴハウスっていうか貸し箱みたいな所でブルーハーツのコピーしてた。そん時対バンしてた同級生はメタリカとかパンテラとかブラックサバスとかのコピーやってた。全然かっこよくなかった、俺のほうが何百倍も何千倍もかっこいいんだって思ってた。今思うと相当恥ずかしい話だけど、その頃を思い出すと、何も知らないことのほうが楽しかったりするんだなと思った。きっと初期衝動を忘れないことが大事なのはそのためだと思う。今現在バンドのライヴを観てもこういう構成ありだなとかないなとか、楽しむってよりか勉強のために、ていうかそういう耳になっちゃってる。テレビを見てても、後ろのBGMが気になったりするし。この耳を何とかしたい元に戻したい。そして観ている人の初期衝動を刺激したい! だから今度クロマニヨンズのライヴを観て思い出すことにする。なんか昔のことを思い出したら楽しくなって来た。よーし呑もう!!! 酒だ!! 酒持ってこーい!

人生初のロック・ライヴはライジングサンでのTMGE

13_ap03.jpg菱谷昌弘(ds, cho):今回は衝撃を受けたライヴについて詳しく書く! ということですが、僕は高校3年生になるまでロックのライヴにお金を払って観に行くことがなかったんです。それまで生演奏といえば親に連れられクラシックを聴きに行ったくらいで、よく寝てました(笑)。とにかく、その初めてだったのが、ライジングサンの第1回目でした。今考えてみると、あの当時僕が好きだった人達ばかりが北海道に集まってライヴをするということがほんとに夢のような気分でした。毎年ライジングは8月の第3週目の週末にあるので、当時高校生だった僕は始業式をサボり友達と意気揚揚とした気分で観に行きました。

前置きが長くなってしまいましたが、衝撃を受けたのは、そこで観たミッシェル・ガン・エレファントのライヴです。若い時に経験したことって後々自分の中に残るじゃないですか。これはまさにそれなんです。当時僕が音楽的に好きだったのがガレージ系の音楽やら60、70年代のロックで、僕の中でその代表的な存在がミッシェル・ガン・エレファントだったわけです。高校2年の時に友達の家で初めて聴いて、カッコいーなー! と思ってそいつから借りて、家に帰って親に怒られてもなお何回も聴いた挙げ句ドラムをコピーしまくりました。ギターとかベースやってる友達にも聴かせて、コピー・バンドもしました。学校祭でやったらやたら盛り上がって、ステージの底が抜けるんじゃないかってくらい生徒が乱入してきました。

そんなことがあって、ミッシェルには何か特別な想いがありました。“絶対一番前まで行って観てやる”と静かな闘志を抱き、今か今かと彼らの出番を楽しみに待っていました。テレビで見たライヴ映像とかであり得ない数の客がダイヴしてたり飛び跳ねたりと、実際はかなりやばい状況になるんじゃないかと思ってたんですが、若かった頃の僕は体力がありました、へっちゃらな自信がありました。

そしてとうとうライヴがスタート! 何の曲から始まったかは忘れました!(笑) それよりもライヴを観る客の暴れっぷりといったらもう凄まじいものがありました。「荒野の一ドル銀貨」のSEが流れて、客が叫び、曲が始まると曲に合わせて客は飛び跳ねました。ライヴ初体験の僕はその雰囲気にうまく入れず、でも人口密度が満員電車並みなので自分の意志とは無関係にジャンプしてました。当初の目的だった“一番前に行って観る”というのを実現させるため、僕はその戦場を一歩また一歩と進んでいきました。どうやらライバルがたくさんいるみたいで、進めば進むほど人の前に進む難易度が高くなっていきました。進む途中上から転がってくる人がいました。首をひねり、舌を噛み、酸素も薄くて何度も意識が飛びそうになりました。そして前から2列目くらいまで行けたのですが、そこまで行っといて何故か、さすがに前にしがみついて観ている人を振り払ってまで観る図々しさはありませんでした。目的を失って力を抜いて観ていると、数曲終わった後人に押し流されて、気付くと前にいた場所より後ろにいました。すると、名曲「世界の終わり」が流れてきました。そのくらいからもうどうでもよくなっちゃって、人混みの中ただボーッとしていました。何だったんでしょうかね、満足感と疲れが同居していた感覚でした。するとその瞬間、「CISCO」をやり始めました。それはマズイです。僕が保っていた理性はこの曲のせいでブッ飛んでしまい、周りなんか気にせずに曲が終わるまで頭を振り回しまくっていました。頭が取れるんじゃないかってくらい頭振ってましたね。

そんな感じでライヴが終わり、体力には自信があったつもりだったのに精神的にも肉体的にも疲れ果てました。気が付くと体中上から下まで全てが、自分の汗と人の汗のコラボレーションです、一回水に浸かったみたいになってました。1枚だけしか持ってなかったTシャツに着替えて、下は乾くのを待ちました。ベースキャンプもなく、もう最前線で観る元気もなかったので、まったりと夜が明けるのを待って、明け方帰りました。

人は音楽であそこまで狂えるのかと、初体験ながら最初にあんな体験できて良かったなと思います。その一件があってから、僕は音が聴きたいので前でライヴ・バトルに参加するのはやめました。てなわけで、後にも先にもこんな経験はないだろうということで、音だけでなく色んなことを含め一番衝撃を受けたライヴはこれにしておきます。謝謝。

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