著者近影。8月26日、福井県東尋坊で、飛松五男さんと。
日本人は熱しやすく冷めやすいと言われるが……と書いて、あれ、これ週刊ポストの記事と同じことかな、と思ってしまった。一般論を語っておいて、決めつけるという筆法。だとしたら、反省。
9月2日にぶつけて出した?
何のことか? もちろん、今年の9月2日に出た週刊ポスト(9月13日号)の記事のことだ。表紙や新聞広告、電車の中づり広告にも出た「韓国なんて要らない」という記事。その記事タイトルや内容が物議をかもしたのは、まだ皆さんの記憶にもあるだろう。
9月2日に出す号に掲載したということは、関東大震災(大正13年)が起きたのが9月1日で、その後、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とか「朝鮮人が暴動を起こした」などのデマに踊らされて、各地で人々や自警団、あるいは警察までもが、朝鮮人、ないしは朝鮮人と思える人を、撲殺したりしたのが、2日から数日間だから、それにぶつけるように出しているわけだ。
若い読者(が多いだろうが)で、習ってない、よく知らないという人もいるだろうから、念のために書いておくと、上に書いた「朝鮮人と思われる人」というのは、町の入り口や道路で警戒をした自警団などが、都心から逃げてくる人々などに対し「1円50銭と言ってみろ!」と詰問し、うまく発音できない人を朝鮮人とみなして、乱暴したり死に至らしめたという事実のことだ。
朝鮮の人々の言葉には、ザジズゼゾの発音がない。なので、どうしてもジャジィジュジェジョとなってしまう。日本語にthの発音がなかったり、RとLの区別がないのと同じようなことだ。詰問して「イチエンゴジッセン」とうまく言えない人々を朝鮮人とみなした。だから、もともと発音が不明瞭な人や、方言しか使えない人が、「この朝鮮人め!」と竹やりで突かれるなどして死んだ人もいたという。
内田樹さんが言うなら間違いない
話は戻るが、「『嫌韓』ではなく『断韓』だ 厄介な隣人にサヨウナラ」というサブタイトルが付いた「韓国なんて要らない」という記事。私はお金がもったいないから普段は週刊誌は買わないが、ニュースになったので買ってみた(こんな人が多かったようで、この号はほぼ完売だったらしい。あとで触れるが、結果的には小学館、ないしは週刊ポスト編集部の思惑通りになったわけだ)。
記事を読んでみたが、あえて言うと「あれ、この程度!?」というのが率直な感想だ。ページ数だって10ページしかない。特に問題視された「怒りを抑えられない『韓国人という病理』〜10人に1人は治療が必要(大韓神経精神医学会)」という記事は2ページだけだ。内容を擁護して言ってるのではもちろんなく、こういう記事って、今までも他の雑誌ではたくさんあったんじゃないの、もっとひどいのが!? という思いだ。
もちろんだからと言って、こういう記事を掲載していいというわけでは全くない。僕の知り合いの作家の人たちも、「出版社が差別を煽るなんて」と、小学館からはもう本を出さないと宣言した。たとえば内田樹さんだ。こんなことも書いている。
というわけで僕は今後小学館の仕事はしないことにしました。幻冬舎に続いて二つ目。こんな日本では、これから先「仕事をしない出版社」がどんどん増えると思いますけど、いいんです。俗情に阿(おもね)らないと財政的に立ち行かないという出版社なんかとは縁が切れても。(ツイッターより)
内田さんとは何度も対談をしているし、それが本にもなっている。博識で洞察の深い人だと、かねてより尊敬している。その内田さんが怒っていることひとつをとってしても、記事が肯定できないことは明らかだ。待てよ、僕は小学館からは本を出してないんだっけ? 記憶にはない。幸か不幸か(この場合は幸か)、小学館とは縁がなかったみたいだ。
他にも、周知のように柳美里さんはじめいろんな人、いろんな友人知人が、抗議や疑問の表明をしている。
早くも風化はだめだろう!
それに対して、小学館は素早く謝罪文を出したようだが、これは果たしてお詫びなのか。以下が全文で、中にお詫びという言葉は確かにあるが。
弊誌9月13日号掲載の特集『韓国なんて要らない!』は、混迷する日韓関係について様々な観点からシミュレーションしたものですが、多くのご意見、ご批判をいただきました。なかでも、『怒りを抑えられない「韓国人という病理」』記事に関しては、韓国で発表・報道された論文を基にしたものとはいえ、誤解を広めかねず、配慮に欠けておりました。お詫びするとともに、他のご意見と合わせ、真摯に受け止めて参ります。
ただ、今、言いたいのはこの文言についてではない。
この文章を書いているのは9月17日、くだんの週刊ポストの発売日から、まだ2週間そこらだが、これを書こうと思った時点で、世間がすでに静かすぎる。もう終わった感が漂っているような気がする。読者がこの号を目にするのは、さらに2週間後くらい。その時はたして、人々の意識、あるいは記憶に、この「事件」が残っているだろうか。
重要な問題点はいろいろあるはずだ。
出版社が差別を煽るような記事(と言っていいと思う)を書くこと。しかも、それを売り物にしている雑誌や出版社ではなく、僕も小さいころ愛読した小学生用の雑誌も作っている出版社だ。日本でも有数の大出版社だ。
出版業界の人の意見では、紙の本、紙の雑誌自体が、もう10年以上、売り上げは一貫して右肩下がり。週刊ポストも、10万部以上、発行部数が下がっているとか。それでも30万部以上は発行されているというから、毎週毎週と思えば、恐るべき数字だと思う。僕の本なんて……いや、この話はよそう。みじめになるばかりだ。
そういう中で、嫌韓本やヘイト記事は、一定の部数に結び付く現実があるという。しかも、週刊誌などは編集部が企画を立てて、フリーランスの記者が取材や記事を書くことが多いとか。そういう構造の中では、必ずしも自分の意にそわない企画でも、生活を考えればやらざるを得ない局面も少なくないだろう。
実際、週刊ポストの記事だって、僕が見る限り、あまりはみ出さないように気を付けて書いているふうは窺える。すると見出しを付けるほうの問題なのか。僕の経験でも、本に付けられる帯のコピーは、こちらの思いより“暴走”していることもある。そんな時でも、帯やタイトルや宣伝のキャッチコピーなどは「出版社の専権事項だから、お任せください」と言われることが時々ある。早い話が、口を出すなということだ。
うーん、これを許すと、週刊ポストの二の舞か。まったく、今月も右顧左眄を露呈する結果になったかもしれない。
【右顧左眄(うこさべん)】広辞苑=「(右をふりむき、左をながし目で見る意)人の思わくなど周囲の様子を窺ってばかりいて決断をためらうこと。左顧右眄。『いたずらに─する』」。邦男苑=「特定の誰か、たとえば私、のことを指しているのではありません。いや、指しているかな?」構成:椎野礼仁(書籍編集者)