煩悩放出 〜せきしろの考えたこと〜
第22回のコラムでもう使えないたとえについて書いたが、今回は使えるたとえについてである。
今最も使えるたとえといえばなにかご存知だろうか?
そう、
高嶋ちさ子の子どものDSのように
である。
2015年、バイオリニストの高嶋ちさ子さんが、平日はゲームをしてはいけないルールを守らなかったために息子のDSを折るという出来事があった。それをたとえにしたものである。
このたとえは汎用性が高い。数多くの状況をたとえることができるのだ。
たとえば「割れる」。
この状況をたとえてみよう。
高嶋ちさ子の子どものDSのように皿が割れた
高嶋ちさ子の子どものDSのようにモーゼが海を割った
高嶋ちさ子の子どものDSのように割れた桃から元気な子どもが飛び出してきた
高嶋ちさ子の子どものDSのように割れた割れ煎餅
このように皿が割れるという日常的なことからファンタジー、そしてお煎餅まで、割れた様子をたとえることができるのだ。
もちろん、汎用性が高さを証明するように他のものもたとえることができる。
折れる
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように桜の枝が折れた
別れる
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように別れた二人
分離する
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのようにドレッシングが分離した
戻らない
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように二人の仲はもう戻らない
諸行無常
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように諸行無常だ
悲惨
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように悲惨な事故現場
絶望
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように絶望しかない
散らばっている
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように落ち葉が散らばっている
動かない
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように動かなくなった愛車
壊れる
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように心が壊れる
断片的
(例)高嶋ちさ子の子どものDSのように断片的に記憶が蘇った
皆さんも是非積極的に使ってもらいたい。
もちろん使わなくても良い。