ある日、橋本治が「PANTA、『マーラーズ・パーラー』の“マーラー”はなに?」と問いかけられた。普段は歌詞について聞かれても、語彙については説明するが、意味を問われても逆サービスになるので返答は避けている。そんな習慣もあるなか、相手が橋本だし、ここは「ああ、グスタフ・マーラーだよ」と即答したところ、「いや、違う、これは『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』で描かれたあのフランス革命のマラーだ」と断定してきた。驚いた。公私にわたって仲良くしだして間もない頃だったから、作者を前にしてその説明を端から否定し、自分の答えが正解だと揺るがない意思を言葉にしてしまうこの橋本治という男にとんでもない凄さを感じた。
そして、またまた深くいろいろと論じ合ったりし合うようになったのだが、確かに橋本の言う通りなのである。作者の手から離れたら、もうすでに作品は作者のものでなく、聴いてくれている人のものであり、解釈もその人の感じたものが正解なのである。彼の著作『秘本世界生玉子』の中で「マーラーズ・パーラー」についてこう記している──「僕が天気のいい日、道端のパーラーに一人で腰を下ろしてジュースを飲んでいたら、それまで眺めていた全世界がキチガイ病院だったということが分かった」