自分に優しくしてあげられますか? こんにちは、朗読詩人の成宮アイコです。
今日こそ、と決めていました。
「お財布にお金は入ってる、買うソフトも決めた。よし。」
その日、ネットで買うつもりが踏み切れなかったので強行手段で電気屋さんに向かっていました。
そう、今日こそ買うと決めていたんです。Nintendo Switch Lite。
わりと頻繁に、ご飯を食べようとした瞬間に、「お前がご飯を食べたからなんだっていうんだ」と自分に思うことがあります。
なんだっていうんだもなにも、生きているのでおなかもすくし、人がご飯を食べるのは当たり前のことだし、誰かがおなかがすいてコンビニでおにぎりを買っているのを見ても、定食屋さんで隣の席の人が大盛りを頼んでいても、当然のことすぎてなんとも思いません。わたしだってお菓子をもらったら嬉しいし、おなかいっぱいでもデザートは食べたい。食べる行為自体への罪悪感はないのです。
それでも、「アジコロ定食で」と声を出す瞬間、タピオカのストローに口をつける瞬間、口にふくんだおにぎりを咀嚼する瞬間、頭の中を「お前なんかが」が支配して体が硬直する日。極端なことを言うと、「みんなは生きているだけで立派なのに自分はただのうのうと生きていて非生産的すぎる、無理!!!」という精神状態になります。
迷惑ばかりかけて人並みにもなれないのに飲食なんてしようとしてせっかく産んでくれたお母さんごめんなさい……と、書いていてバカらしくなるほど。お母さんは、わたしがご飯を食べてタピオカを飲んで喜んでいることを望んでいるはずなのに。
そんなふうに、自分なんかにお金を使うなんて、と自問自答してしまう。バカみたいですよね、大丈夫、自分でもそう思います。
1時間以上お店で迷い、購入用の値札(本体は展示しかしていない)を手にとっては、レジの前で引き返し、諦めて帰ろうとしてエスカレーターに乗り、「いや、今日こそ買うって決めていたじゃないか」とまた引き返し、「2万円か」と思う。
誰かに会いに行くとか、プレゼントをあげるとか、ライブに行くとか、他人へのことならば罪悪感はないのに、自分自身なんかにお金を使ってあげるのだと思うと途端に罪悪感で悲しくなります。お財布を開くと、わたしが今まで言ってしまった汚い言葉や、馴染めなかった会社のことや、さらにさかのぼって疎外感を感じた体育祭のこと、これまでの人生が次々に思い起こされていく。無理、一生買えない。
「わたしはご飯を食べてもいいし、好きな服を買ってもいいし、自分のお金でゲームを買ってもいい!!!」
頭の中で繰り返し叫び、なにも考えないように早足でレジへ。わたしはご飯を食べてもいい。わたしはゲームを買ってもいい。やっとの思いで購入をしたら、なんだかズンと重い気持ちになっていることに気づきました。なぜ嬉しい顔ができないのだろうか。
帰り道、650円のクリームソーダを頼んで、スプーンでぐるぐるとかきまぜます。このくらいならお疲れさまのご褒美って思ってあげられるのにな。本体と一緒に買ったソフトを開封してやっと少し嬉しい気持ちになりました。
だって、ずっと欲しかったんだもの。
他人がゲームを買っても、「お前なんかが」って思わないように自分にも、「お前なんかが」って思わなくていいんだよ、とわざわざ言い聞かせていないとまるで不安になってしまうのです。
■Aico Narumiya Profile
朗読詩人。朗読ライブが『スーパーニュース』や『朝日新聞』に取り上げられ、新潟・東京・大阪を中心に全国で興行。2017年に書籍『あなたとわたしのドキュメンタリー』刊行(書肆侃侃房)。「生きづらさ」や「メンタルヘルス」をテーマに文章を書いている。ニュースサイト『TABLO』『EX大衆web』でも連載中。2019年7月、詩集『伝説にならないで ─ハロー言葉、あなたがひとりで打ち込んだ文字はわたしたちの目に見えている』刊行(皓星社)。