アーバンギャルドが4月27日(月)に発売した『水玉自伝~アーバンギャルド・クロニクル~』をもちいた読書感想文コンクール「わたしの水玉自伝」をnoteにて開催。このたび受賞作品が決定。Rooftopでは受賞3作(浜崎容子賞、松永天馬賞、おおくぼけい賞)、さらに追加で藤谷千明賞(緊急創設)を順次掲載していく。
はーちゃん 「水玉から覗きこんだ世界-私の『水玉自伝』レポート-」(おおくぼけい賞)
はじめに
この文章では、水玉自伝を読んだ感想と共に、アーバンギャルドやその楽曲、メンバーに対する筆者の思いをレポート形式で述べていく。
アーバンギャルドと私①
筆者は心理学を学ぶ、一介の学生である。悩める若者たちの話を聞き、少しでも心が軽くなるお手伝いができれば良いとの思いで、とある団体でアルバイトとしてカウンセリングのようなことを行なっている。心からとめどない血を流す彼・彼女たちから発せられる、「死にたい」というメッセージ。筆者はマニュアル片手にじっくりと傾聴し、彼・彼女たちの気持ちを整理することしかできない。カウンセリングでは、「死にたい」と言う人に「死にたいなんて考えるの良くないよ」「そんなこと言っちゃダメだよ」と返すのは逆効果だとされている。
一方、アーバンギャルドは彼・彼女たちに優しい言葉をかけるのではなく、逆に「生きろ これは命令形だ」「死んだら負けよ それだけよ」と言葉のナイフを突き立てる。その結果、多くの彼・彼女らの心の病みを昇華させることができるのだから、アーバンギャルドの楽曲の持つ力はやはり確かなものがある。「病んだかな?と思ったら……」のキャッチコピーは何とも言い得て妙である。
そして、このアルバイトをする中で、筆者もだんだんと数年前のことを思い出していた。私もアーバンギャルドの音楽に壊れかけの心を救われたのだった、ということを。
アーバンギャルドと私②
ここで少し自分語りをさせて欲しい。大学生になるまで、音楽を聴くためにイヤホンを使用することが禁止されていた。(え、なんで?という皆さんのツッコミが聞こえそうである。そして何故かCDを借りるのは許されていた。)成績が悪かったり親の機嫌が悪かったりすると、しばらく音楽すらも聴かせてもらえなかった。当時、ダブルバインドな家庭環境に立ち向かったり、耐えたりできるほど私は強くなかったので、私は密かな抵抗として逃げるという手段を取っていた。つまり、親に秘密でイヤホンをずっと持ち続け音楽を聴き漁っていたのだ。
高校生の時は通学時間が長かったので、電車の中が絶好の音楽タイムだった。イヤホンは数回親に見つかり、前髪をぱっつんするように目の前でハサミで切られてしまったが(この時のショックは今でも鮮明に覚えている)、その数回以外はほぼバレなかった。隠して持ち出す方法はいろいろ編み出したが、最もステルス能力が高かったのは、ブラジャーのパットの中に入れる方法と、ノートにプリントを貼って、その隙間に隠す方法だった。まるで1984の世界でテレスクリーンから逃げているみたいだ、と思った。
そんな私がアーバンギャルドをyoutubeで見つけたのは必然だったと思えるのは少し都合が良すぎるだろうか。春には「さくらメメント」を、山手線に揺られながら「都会のアリス」を聴いた。好きなあの子のことを考えながら「セーラー服を脱がないで」を、咽び泣きながら「水玉病」を聴いた。音楽を聴いている間はとても自由だった。いじめてきたあの子たちのことも、小学生の頃から治らなくて悩んでいる自傷行為のことも、もうどうでもよくなってくるのだ。アーバンギャルドの曲は、陳腐で見せかけの言葉で救おうとはせずに、これ以上沈まないようにしてくれる。「死にたい」の気持ちの裏返しにある「生きたい」という感情を思い出させてくれるのだ。セーラー服を着た一高校生の日々の喜怒哀楽は、アーバンギャルドと共にあったといっても過言ではないだろう。ここで伝えたいのは、アーバンギャルドに救われた人々は今までも、そしてこれからも数多いるだろうと思うが、筆者も間違いなくその一員だ、ということである。(大学生となった今は、イヤホンを自由に使用できている。なんて幸せ。)
松永天馬氏について
自分は「よくいる若者たち」とは違う、一緒にされたくないという気持ちが強かったという若かりし頃の松永氏。筆者は最近、「天馬行空」という言葉を知った。中国では「仲間に入らないで一人で行動する」という意味で使われる一方、台湾では「創造力の豊かな人」のことも指すそうだ(*1) 。どちらの意味も松永氏に当てはまるのではないだろうか。名は体を表すとはよく言ったものだ。孤高の表現者、松永「天馬」が行きし空はどんな色だったのか、本作を読んでその片鱗に触れられたような気がする。
アングラ、サブカルチャー好きなオタク気質だけれど、オタクではない。真面目な生徒会長だけれど、女性に対する奥深い感情が眠っている。その愛すべき乖離を、創作によって自らの手で昇華させる姿は「表現者」松永天馬そのものだ。自分のことはあまり話したくないけれど、目立ちたい、優越感に浸りたい。そんな矛盾ともいうべき葛藤が、「少女」という媒介を通して血肉を伴う楽曲、作品に生まれ変わる。本作を読んで、松永氏の創作の原点の1つにはそんな構造があったことを知ることができた。
ロシアの文豪から、ここ数十年の音楽業界の変遷、日本の演劇事情に至るまで多くを網羅した本作の豊かすぎる脚注は、そのまま松永氏が吸収した文化資本を表している。アングラ、サブカル作品を含む多くの文学作品や演劇や映像が楽曲のモチーフとなっているにも関わらず、それらの世界観に飲み込まれることなく「アーバンギャルドらしいね」と言わしめてしまうのには脱帽だ。その「らしさ」を確立するのに労を多としたことは本作から窺えるのだが、その「らしさ」はきっと唯一無二である。しかもこの「らしさ」は普遍ではあるかもしれないが不変なものではなく、これからも時代と共に洗練されていくのだろう。
松永氏が宮台真司氏にインスパイアされていたというのも納得できるように思う。ももいろクロニクルの「君の病気は治らない だけど僕らは生きてく」という歌詞は、「終わりない日常を生きていく私たち」という宮台氏のキーワードをに影響を受けているのであろう(*2) 。この歌詞が「これまでのアーバンギャルドの集大成的」だというのも興味深い。
現在筆者は、松永氏の交換留学先だった大学に通っている。(同じ学部なのだが専攻が異なる。)聞き覚えがあるかないかわからない外国語が飛び交い、学生ローンの文字がビビッドに輝き、高収入をひたすら繰り返すトラックが走る夜の高田馬場(当時と現在では様子が違うかもしれないが)を松永氏も歩いていたと思うと、何だか親近感を覚えるものだ。本作を読んで、アヴァンギャルドと演劇について学ぶ授業を履修することにした。すこぶる楽しみである。
おおくぼけい氏について
「他人に興味が無い」と繰り返して書くおおくぼ氏。これは筆者の勝手な主観なのだが、他人に全く関心がないダークトライアドのような人物であれば、上記のような内容を素直に書かないのではないだろうか。おおくぼ氏が紡ぐ文章から滲み出る誠実さ、独特の行間が心地良い。まるで嫋やかさと壮大さを併せ持つ、けいさまのピアノ演奏のようだ。
事務所に内緒でミスiDに応募したというおおくぼ氏のエピソードを読んで、恐縮ながら過去の自分と重ね合わせてしまった。筆者も高校生の時分、親にも学校にも友人にも内緒で、とある評論のコンテストに応募したことがある。何を書いても親に嘲笑われ続け、ずっと自分の文章に自信が持てなかった。そんな自分と決別したかったからだ。試験勉強の合間を縫って、誰もいない昼休みの図書室に通いつめ書き上げたその文章は、ありがたいことにちょっとした賞を頂いた。当時、くちびるデモクラシーの「言葉を殺すな」という歌詞にたいへん勇気づけられたのだが、このできごとがきっかけで親から精神的に自立することができたので、アーバンギャルドが「閉じ込められた少女」としての私を解放してくれたと言っても言い過ぎではないだろう。
SOGIの観点から考えてみると、誰しもがジェンダー・セクシュアリティの当事者であるはずなのに、「自分はマジョリティだから関係ない」と思っている人が世の中には多すぎるように感じる。そんな中、おおくぼ氏がミスiD2017に出場し、ファイナリストに選出されたという事実はとびきりクィア且つクールで確固たるものである。けいさまのアクションは、(大袈裟かもしれないが)ジェンダーギャップ指数121位のこの国に蔓延るジェンダーステレオタイプを攪乱する作用を持ちうるのではないかと筆者はこっそりと思っている。
浜崎容子氏について
ファン思いで、アーバンギャル&ギャルソンのことを気遣う優しさが彼女の言葉からはっきりと感じ取れる。また、義務にかられるというわけでもなく、曲を作り歌うことが自分の使命だと述べ創作活動に勤しむ浜崎氏。そのような彼女の姿に天性のアーティスト性を感じた。冒頭の写真の中に佇む浜崎氏の何と美しい、いや鬱くしいことか。幼い頃からバレエを習っており、宝塚大劇場の舞台で踊っていた経験もあるという浜崎氏の筋金入りの所作の美しさは、ファンを惹きつける彼女の魅力の1つであろう。
アーバンギャルドと宝塚歌劇について比較してみると、2つの共通点が浮かび上がってくるのがとても興味深い(*3)。 1つ目は、当時の日本におけるメインカルチャーとは少し異なるものを背景に持っている点だ。宝塚歌劇のアイデンティティ形成の根底には、1920年代に西洋から取り入れたレヴューの存在がある。一方、アーバンギャルドのバックグラウンドにはアングラやサブカルの存在が大きいのは本作で何度も述べられてきた通りだ。2つ目は、時代の影響を受けながら、独自の発展を遂げてきた点だ。宝塚歌劇は太平洋戦争やGHQによる劇場の占領を乗り越えてきたし、アーバンギャルドは震災や若者文化などに影響を受けてきた。
また、『ME AND MY GIRL』のヒロイン、サリー・スミスの衣装と、浜崎氏の赤地に白の水玉ワンピースが似ていると感じたことのある人は筆者の他にもいるであろう。松永氏は本作で、赤という色が「生的」象徴だったと述べているが、これは科学的にも理にかなっているといえる。赤い服を身に纏った女性はより魅力的に見えるという事実は、研究結果からも示されている(*4)。 そもそもよこたんは何を着ても魅力に溢れているのは自明なのであるが。
ふとした他者からの言動に傷ついてしまう浜崎氏はとても繊細であるという印象を受けた。自らを省みる素直さを持つ一方、他人のために自我を抑え込んでしまう側面があるのではないだろうか。確かに世間では自分に自信を持つことは良いこと、そしてその逆は「良くないこと」と言われがちだ。しかし、生きていく中で重要なのは、ありのままの自分を自分で認めていく強さなのであって、無理矢理に自らの自尊感情をあげようとすることでは無いと筆者は考えている(*5)。
むしろ、「自己肯定感の低い少女」を多くモチーフとしてきたものを浜崎氏が歌いあげるからこそ、アーバンギャルドの楽曲が我々の心に響くのではないだろうか。
アーバンギャルドについて
松永氏の、「アングラの中に居続けたくなかった、大衆化された場所で表現を行うことに意味がある」というスタンスが小気味良い。昨年テレビで椎名林檎氏と小林賢太郎氏が対談した際( Eテレ「SWITCHインタビュー」2019/11/30放送)、「作品が『芸術や文学に詳しい』一部の人たちのものになって欲しくない、その作品に触れたみんなが楽しめるものであってほしい」というような趣旨のことを話していた。
「わかる人にだけわかれば良い」という貴族主義ではなく、あくまで大衆に受け入れられることを目指すこのようなスタンスが社会の中に存在することは重要だと筆者は考えている。なぜなら、題材として戦争・犯罪・災害・心の病など、「世の中の負の部分」を多く取り上げながらも、上記のスタンスに根差しているアーバンギャルドは、ポジティブでいることや建前じみた綺麗事が良しとされる(我々の多くにとっては息苦しい)社会へのアンチテーゼとなりうるからだ。
もちろん、芸術や文学を吸収すればするほど楽しみが増し、楽曲を味わう感度は高くなっていくものだ。この『水玉自伝』が赤い聖書であるとされている所以の一つには、作中の膨大な注釈が「アーバンギャルド」という教義及びその土台を理解、そして解釈するのに非常に有用であるという点があるのだろう。
サブカルチャーをバックグラウンドとし、狂った電子音にのせた社会へのアンチテーゼを爆音で鳴らし続けていく。その様が、アーバンギャルドをアーバンギャルド足らしめているのかもしれない。
おわりに
サブカルに特別詳しいわけでもなく、アカデミックな専門家でもない筆者のレポートを最後まで読んでくださってありがとうございます。色々好き勝手に書いてしまいました…。
それでもアーバンギャルドに対する愛をありったけぶつけてみました。このレポートという名のラブレター、あなたが燃やしてください。
引用文献
*1 佐々木瑞枝(1999)『女の日本語 男の日本語』 筑摩書房
*2 宮台真司(1998)『終わりなき日常を生きろ』 筑摩書房
*3 川崎賢子(2005)『宝塚というユートピア』 岩波新書
*4 Andrew J. Elliot and Daniela Niesta.(2008). Romantic Red: Red Enhances Men’s Attraction to Women. Journal of Personality and Social Psychology, 95, 1150-1164.
*5 宮口幸治(2019)『ケーキの切れない非行少年たち』 新潮社
『水玉自伝~アーバンギャルド・クロニクル~』読書感想文コンクール「わたしの水玉自伝」受賞作品発表
浜崎容子賞
ちよ「アーバンギャルドが存在しない世界線の話」
松永天馬賞
Fleur cent têtes・百頭花(ひゃくとうか) 「U星よりIをこめて-『水玉自伝』外伝-」
おおくぼけい賞
はーちゃん「水玉から覗きこんだ世界-私の『水玉自伝』レポート-」
藤谷千明賞(緊急創設)つの木
「アーバンギャルドに青春を押しつけてしまった」