小さなキッカケで誰しもが陥ってしまう正義を謳っての暴走。地続きの場所にある怖さを描いた映画『激怒 RAGEAHOLIC』。本作で長編映画監督デビューを果たす高橋ヨシキ、主演・プロデューサーとして作品を支える川瀬陽太はどのような思いを込めて本作を制作したのか。その一端を伺いました。
[interview:柏木 聡(LOFT/PLUS ONE)]
普遍性が生まれるだろうと考えた
――『激怒 RAGEAHOLIC(以下、激怒)』はスカッとする映画でした。
川瀬陽太:スカッとする側でしたか(笑)。
――はい(笑)。今は怒るのが良くないという風潮があり、我慢することも多いので。
高橋ヨシキ:確かに。
川瀬:出来ないことをしてくれるというのは、映画の魅力の一つですからね。
高橋:我慢に我慢を重ねて、最後に爆発するというのはジャンル映画の元型の一つでもあります。
――ネット炎上などで行われている集団暴走がメタ的に表現されていて、これはオカシイことだと問題提起していただけているのも嬉しかったです。
川瀬:コロナ禍になり仰っているようなことが、僕らが思っている以上に加速しているように思います。
高橋:『激怒』には政府や国ような大文字の抑圧者は意図的に出さないようにしています。そのことで生まれる普遍性があるだろうと考えたからです。大文字の抑圧者を設定してしまうと、それを倒せば一件落着という感じが生まれてしまうと思うんですが、それはさすがに安易すぎるんじゃないかと。それより、自分の身近な人が気づいたら「あっち側」になってしまうということ、逆から見たら自分が「そっち側」にカテゴライズされてしまう、そういうある意味「ボディ・スナッチャー」ものに近い感覚の方が実感としてあるんじゃないかと思ったわけです。
――作中では市井の人々や仲良のいい友達がアメリカから帰ってくるとそちら側に行ってしまっていて、その姿に恐怖を感じました。
川瀬:ヨシキが舞台となる町を富士見町と命名したのは日本各地にどこにでもある町名で、ある種の匿名性が高いからなんです。
――“山田太郎”的な名前ということですね。
川瀬:そうです。どこにいっても変わらないという意味を込めて付けた名前で、その町の中で行われているのが私刑なんです。組織が行っている刑罰ではなく私刑を描くことによって、身近な世界に繋がると考えたんです。
――おっしゃる通り、ともすると自分もそういった行為に及んでしまう可能性もあるなと感じました。誰しも自分が正しいと思っていますが、正義というものは立ち位置や時代によってスグに変わってしまうものでもあります。そのことを忘れ妄信してしまい暴走に繋がってしまうのは実際にも起きていることで、誰しもキッカケがあれば暴走してしまうという姿は観ていて心臓がザワザワしました。
高橋:「正義の暴走」というより「安全で安心な日常が見かけ上連続していること」への希求ですかね。それはそれ自体、決して悪いものではなかったはずですが、実際にはユニフォーム姿の自警団が威圧的にあたりを睥睨して回るようなことが実際にある。LOFTのある歌舞伎町にもいますよね。あれは都か町が民間企業に委託しているんだと思いますが、ずいぶんとエラソーにしている。何がそれを可能にしているかというと、安っぽいベストや腕章だけです。それが象徴する「お墨付き」感が人間をそういう風にしてしまう、ということを本作では戯画化して描いています。
――選ばれることで何も変わっていないのに力を得たという錯覚をしますよね。
高橋:警察官や機動隊は専門の訓練や教育を受けた上で、特殊な権限を与えられているわけですよね。そこには法律の制限もあります。ところが、自警団などの場合はお揃いのベストや腕章を身に着けただけで権能が発生しているかのような錯覚が生まれる。そこには恐ろしさを感じるし、だからこそ普通の町の人たちとして描いています。
―― 一部の警察官が加担している・癒着している部分はありますが、物語のメインには出てきていないですね。急に特権を得たことで思考停止してしまう怖さがあるということですね。
高橋:そのとおりです。劇中に自警団が駐車料金を踏み倒して逃げようとした若者を咎める場面があります。踏み倒しはもちろんダメですよ。しかし、だからといって車から暴力的に引きずり出して制裁を加えるという行動に及ぶ、というのは極端だしボーダーラインを一足飛びに飛び越える行為です。ユニフォームを身に着けたことで、その越境を可能にするメンタリティが獲得できてしまう。
――集団になることで、ある種の匿名性が生まれ及んでしまう怖さでもありますよね。
高橋:それがユニフォームの怖いところで、ありとあらゆるユニフォームや制服にはそういう機能があります・
――深間も暴力的な所はありますが最終的な責任は自分で負うという覚悟があるので、外に言い訳を作っている彼らとは似て非なるものがありますね。帰ってきた深間に桃山が「あなたの行動に触発されました」とある種のプレッシャーを与えているところが、人間らしい厭らしさですね。深間という言い訳を作る、しかも警察官がやっているんだから何が悪いという。それに対峙する深間の葛藤している姿も素晴らしかったです。
川瀬:暴力に及んでしまうというのは良くないやり方ですが、深間も耐えて耐えての結果の行動ですから映画ならではの解決法だと思います。街の自警団も深間も正しいことをしているわけではないんです。ただ、正しさを強制してくる存在が居て、目に見えない強制力があった。そういうものに対峙することでスカッとするんじゃないかなと考えました。本作を観た方からは「スカッとした。」と感想をいただくことが多いので、プレッシャーのようなものを感じているんでしょうね。
――実際に私がそうでした。
川瀬:景気の悪さからいろんなものを民間委託するじゃないですか。そういった様子から「お前らで全て処理しろ、貧乏人同士でやっとけ。」と感じてしまうこともあると思います。それはどうなんだろうと、ヨシキとクダを巻くこともありました。そういう思いを映画ならではの形で出せたんじゃないかなと思っています。
――自己責任を過剰に課せられる世の中になっていますね。環境によってそうせざる負えないことも過分にあるので、一括りにしていいものではないです。作中で「こんな世の中まともじゃない」や「お前は誰と喋っているんだ」といった台詞が印象的でした。コミュニケーションツールがこれだけ発達している世の中ですが、その弊害として根っこの部分でちゃんと対峙できていないという歪んだ部分があるので、他人事のように考えることが増えているのかもしれませんね。アメリカから帰ってきた深間が痴呆のお母さんを逃げ道にしてしまっているのもそういった部分を象徴しているなと感じました。
高橋:やはり、深間という人間は狂っているんです。ただ世の中も狂っているんだとしたら、どちらが正しいのか? あるいはどちらも正しくないのか。深間は明らかに狂っていますが、そのことが「世間」の側の正気を担保するわけではない。深間とは違う意味で「世間」も狂っているんです。
――深間が更生施設に入るきっかけもある意味では人を助けるための暴走です。容認するべきではない行動ですが全て間違っているのかというとそうではないですから。作中のマスコミもそうですが派手なトピックだけを切り取って全体像を書かない、受取手も何故そうなったのかを考えないということが往々にしてあります。それは自戒の念も込めて反省するべき点ではありますね。
川瀬:深間というおじさんもアンガーマネジメントできてないおじさんですから。
高橋:そもそも停職中だし、昼間っから飲んだくれてばかりだし、しょうもないところだらけなんですよ。