他人に面倒をかけたくない。終活ブーム、自死について
──「終活ブーム」に関して否定的なお話をされていましたが、詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?
佐藤:「終活」をするのはいいと思うんです。でも「終活」を売っている人の売り方が良くないと思うんですよね。
──不安を煽って悪どい商売する……。
佐藤:ああいうのは「スピハラ」ですよ。スピリチュアルハラスメント。終活ビジネスもそうで、あなた死んだ後にこんな風に恨まれるかもしれないですよっていう。まだ死んでもいないのになんでそんなこと言うんだっていう。お金の話ははっきりさせておいた上で迷惑かからない方がいいのかもしれないですけれど、介護の面倒見にいくとか、身体のこととかっていうのは、子供だって頼ってもらわないと寂しいものですよ。90歳のおばあちゃんが長男坊に「あんたにゃ心配かけないよ」っていうより「ありがとね」って言ってもらいたいもんですよ。母ちゃんなんだからやってあげたいでしょっていうと「そうそうまあまあね」っていうもんなんですよ。
──失敗をしないように、迷惑をかけないようにって、世の中がどんどん潔癖になっていく感じ。
佐藤:迷惑なんてものは幻想で、特に家族という関係だと好きか嫌いかしかないと思いますよ。嫌い合ってる家族は大変だねっていうことだし、好き過ぎるのも大変だし、ほどほどがいいんですよ。
──自殺や自死にも繋がってくる話かなと。周りに迷惑を掛けたくないから死のうって思ってしまうこと。
佐藤:そういう考え方もありますよね。まあでも実際現場で見ているとそういう風に思っているのかなっていうのはなんの保証もないんですよね。だからもう病気の発作なんです自殺や自死は。そう捉え方を決めていかないと、人の人生が不意に止まるという不可逆性を持ったものを受け止めるのは無理ですから、心の病の発作です、それ以上のことを考えなくていい。亡くなった方の人生を見るというよりは亡くなった人の周りに残された方を見るしかない。その方達が論理的に納得のいく答えを用意するのは不可能です。ただ共にいて大変なんだよっていうことだけを周りはやっていくしかない。その周りの人たちだって大変なんですよ。自死が良い悪いっていうのは無くて、ただ少なくとも大変だっていう事実だけがあるだけなんです。ただただ供養するっていうのは大事なことで何かを語るっていうのが通用するようなことではないです。言葉で表現できるような世界じゃないですし、するとしたら薄氷です。いつどこを踏んだら割れるかわからないという緊張感。誰がどういう感情を持っているかなんてわからない。みんなが危うい緊張感を持っている中で受け止められない状況なのに存在しているというのが自死の現場です。
──個人的な話ですが、友人が最近亡くなって、それは自殺だったと、SNSに書かれていて。私は、自殺なんて書かなくてもよかったんじゃないかって思って、近親者が自殺でしたとはっきりと書いたことにショックを受けてしまって。それを私はどう受け止めればいいのかということが未だにわからないままなんです。
佐藤:お辛かったですね。
──……。(そうか、わたしはつらかったのか)はい。
佐藤:自殺ですと書きたくない書かない遺族、書かなくてはならなかった書いてしまった遺族、それは同時に存在していますし、存在していいと思うんです。自殺でも心不全でしたと書くこともあります。その人がどういう風に生きて死んだのかっていうのは周りが何か言えることじゃないんですよね。亡くなっちゃって寂しいね、弔おうねっていうのだけしか、周りの人が言えることはないんです。世の中を自分のせいだと考えてしまいがちなんですけど、物事を考えるときに大事なことは、定義、重要度、優先順位、そして最後に自分のせいかどうか。この4つで考えると物事がよくわかってくるんです。この最後の「自分のせいかどうか」っていうのが結構大事なんですよ。その自死してしまったことって、あなたのせいなの? 親のせいなの? 誰のせいでもないことでしょ? それを、誰のせいなんだと考えてしまうのは全部が自分の思い通りになるって考えているからなんです。繰り返し言っていますが、思い通りにならない世界で生きているから、思いもよらないことが起こるんですよっていうことなんです。少なくとも自分のせいではないことを自分のせいかのように受け止めるのは大変なんですよっていうことだと思います。
──SNSのコメント欄に自分のせいだったのかもしれない、あのときああすればよかったっていう言葉が溢れていしまっていることが、可視化されてしまっていて、それが結構きついものがあったんですよね。この気持ちの折り合いの付け方に戸惑ったというのが正直なところで。
佐藤:そうなってしまうんですよね。昔の江戸っ子の「しょうがねえや!」いうのをもう一度取り戻さないといけないです。「しょうがねえ」「そういうこともある」「大変だったな」「まずは葬式やろう」「出れなかったら墓参りでいい」「一周忌に飯でも食おう」っていう、誰のせいじゃなく起こったことに対応していく強さですね。それは諦めているとか悪いことではなくてちゃんと未来を掴むためのすごく強い言葉なんです。まずは自死という事実を定義する、重要度を考える、そしてもう一つ優先順位というのも大事なんですが、重要なことではあるけどいま今日自分がやらなければいけないことをおろそかにして友達の供養なんてできないんだから、優先順位をちゃんと果たすんです。そして自分のせいかどうかを考えて受け止める。そうすればどうしたらいいのか理路整然と見えてくるでしょう?
──自分を大切にすることでもありますよね。
佐藤:世の中には10億借金あっても30人にフラれてもひとりきりになっても死なないような人はたくさんいるんです。そういう人に限って「いやあ俺しょうがないんすよぉ」なんて言って生きてるんです。大抵のことがあったからって死ぬことじゃないんですよ。それでも死んでしまうっていうことは、心が弱って弱って弱って結果発作で死んでしまったというしょうがないことなんです。
──SNSのせいで、今つらくて、立ち直れない人が無理矢理に、すぐに気持ちを切り替えて言語化して、説明しなければいけないっていう状況があるのかもしれない。でも、その言葉にどう返せばいいのか。返したいけど返し方がわからなくて、わたしの整理できるスピードとみんなのてきぱきとした対応に温度差を感じて、自分はなんて冷たい人間なのかって、考えすぎてしまって。返事をしたくても仕方がわからなくなっているのが今です。
佐藤:だから「定型文」って便利なんじゃないですか。
──あっ!
佐藤:どう声をかけていいかわからないからこそ、葬式や弔いっていうのは定型の塊でやるんですよ。それは心が言葉にならないから、形を使ってとりあえず言いましたっていう事実だけをポンと置くんです。
──今、すごく気が楽になりました。迷ったら声のかけかたを考える前に、声をかけてしまうべきなんだって。
佐藤:定型文といってもかしこまったものだけじゃなくて、世の中は定型文に溢れているんですが、それを自分の自由意志だと勘違いしていると大変ですよ。フォーマルな定型もあるし、友達同士での定型もありますし。
生きるのも死ぬのも大変だよ! 生きづらを感じる方にこそ来てほしいトークイベントです
──イベントはどんな方に来て欲しいですか?
佐藤:そうですね…生きているのが辛い方、ぜひぜひお越しください。生きるのも死ぬのも大変だよ! っていう話しかしないので(笑)。生きても大変だし死んでも大変だよ、でもきっとなんとかなる!
──はい! 生きづらさを感じているかたは全員、出席ということで!