他のバンドにはないものをつくっていたARB前期
──1979年12月に発表されたシングル『魂こがして/Tokyo Cityは風だらけ』がARBの本当の意味でのデビュー作だとキースさんは以前からおっしゃっていましたね。
KEITH:うん。生活は厳しかったけどバンドをやるのは面白かった。ライブをやればやるほどお客さんが増えていったから。別にレコードが売れていたわけじゃなかったけど、ライブをやれば確実に動員が増えたからね。
──そのライブの活動拠点が新宿ロフトだったと。
KEITH:確実に朝まで呑ませてくれたからね(笑)。あの頃はロフトと音楽雑誌の『プレイヤー』がARBの恩人だった。当時の『プレイヤー』に載るのはほとんど洋楽ばかりだったのに、レコ評のヘッドライナーとして『BAD NEWS』を邦楽で初めて載せてくれたんだよ。あと、音楽評論家の平山雄一さんもARBをすごくプッシュしてくれたね。
──音楽でメシを喰えるようになったと実感したのはいつ頃でしたか。
KEITH:質屋通いをしないで済むようになったという意味では、サンちゃん(野中“サンジ”良浩)が入ってツアーを回るようになってからじゃないかな。お金に困ったのは独立したての頃だけだったし、リハ代と楽器車を買うお金は藤井さんが積み立てしてくれてたし、なんてことはなかったと思う。ちゃんと給料という形でお金をもらえるようになったのは、初めて渋公をやれた頃かな。
──バンドがようやく軌道に乗ったかと思えば、1983年には一郎さんがツアー中に突然脱退する事態になりましたが、結成当初からの盟友がやめることに対してキースさんはどう感じたんですか。
KEITH:やめると言う人に対して「やめるな」とは言えないからね。じゃあ次にどうしようか? と考えるしかない。俺は昔から去る者は追わず、来る者は拒まずなんだよ。女性に対してもね(笑)。
──その後のARBは斉藤光浩さん、白浜久さんと、ギタリストの入れ替わりと同時に音楽性を変化・進化させていきますが、いまだに根強い人気を誇るのは一郎さん、凌さん、サンジさんとの第1期メンバーの時代です。それはなぜだと思いますか。
KEITH:あの頃は他のバンドにはないものをつくっていたからだろうね。誰かの真似や借り物ではなく、ARBにしか出せない音楽を生み出していたから。
──当時、他のバンドにはないARBらしさとは何だと思っていましたか。
KEITH:リズムや詞だね。俺のドラムはただ8ビートを叩くのではなく、パターンで叩いたり、曲の世界観に合わせて叩くのを心がけてた。「BAD NEWS(黒い予感)」では戒厳令の緊迫した感じを出したり、「AFTER '45」の頭では雨粒が降り注ぐような音を鳴らしたりね。光浩の頃まではバンドで一から音を生み出す作業ができてたけど、久が入ってからは曲がある程度できた状態で音づくりをするようになった。でき上がったものを持ってこられるとアイディアを挟み込む余地がなくなるし、クリエイティブな意味での面白さが薄れてしまう。打ち込みで曲を用意されると、その通りに叩かなくちゃいけないのかな? とか思っちゃうしね。
──1990年10月にARBは活動休止となりましたが、凌さんが俳優活動を優先させたい気持ちはその前から薄々感じていたんですか。
KEITH:そうだね。この先、ARBはどうなってしまうんだろうとは思ったけど、しょうがないことだしね。活動休止中はいろんなセッションに呼ばれたり、周りの友達に助けてもらった。友達がいてくれるおかげで今もこうしてドラムを叩き続けていられる。
──1998年1月にARBが復活するまで約8年、長い歳月でしたね。
KEITH:またやれることになって、純粋に嬉しかったね。新しく加入した(内藤)幸也は俺が推薦したんだよ。幸也は歴代のギタリストと同じく作曲もしたけど、コンポーザーと言うよりギタリスト然としてたよね。EBIちゃんはもともとARBの大ファンで、ちょうどユニコーンが解散してた時期だったので声をかけてみた。
──結果として復活後の第4期ARBがいちばん長く続いたんですよね。
KEITH:そうみたいだね。あまりそういう実感もないんだけど。
──キースさんにとっていちばん思い入れのある時期はいつ頃なんですか。
KEITH:そういうのはあまりないけど、やっぱり面白かったのは前半の頃かな。何もないところから自分たちのオリジナリティをつくり上げていったし、ライブの動員も右肩上がりに増えていったからね。光浩が入った頃にはもう安定した人気だったので、それ以前の何もかも手探りでやってた頃は純粋に面白かった。
満足したらそこで終わり
──そんなARBも2006年3月に凌さんが脱退したことで再び活動休止になりましたが、昨年10月にはARBデビュー40周年記念ライブ『ARB SONGS ALL TIME BEST』が新宿ロフトで開催されて、アンコールを含めた全30曲をノンストップで叩き続けたキースさんの底力をまざまざと見せつけられました。どれだけ時間が経過しても、どのゲスト・ボーカリストが唄っても普遍性の高いARBの歌は今もまったく輝きを失っていないことを証明しましたね。
KEITH:楽曲がいいから古くならないんだろうね。バンドは休止してるけど楽曲は生きてるから、何かの機会があれば演奏したいんだよ。ARBの曲は俺にとって特別なものだし、いちばん自分らしく叩けるから。
──40周年記念ライブの最後にキースさんが「ARB、まだ続けます!」と高らかに宣言したことに鼓舞されたファンは多いでしょうね。
KEITH:単純に俺がARBの曲を叩きたいんだよ。そのために体のメンテナンスを怠らないし、ドラムをずっと練習し続けてるんだよね。だから俺もARBファンの一人なわけ。ARBの曲を叩ける機会があれば参加したいし、アマチュアの人たちがARBのカバーをするイベントにも喜んで参加する。ARBの曲を後世に残していきたいからね。
──来たる2月24日にロフトヘヴンで行なわれるキースさんのプレミアム生誕祭では、Groovin'が8年ぶりに復活を果たしますね。
KEITH:実は去年の秋、博多で一度ライブをやったんだよ。Groovin'は俺が腰を悪くしてツアーを回れなくなったのでやめたんだけど、もともとは自分たちのルーツ・ミュージックをやりたくて始めたバンドなんだよね。最初はメンバーが流動的で、伸ちゃん(藤沼伸一)やコバン(小林高夫)なんかもいたんだよ。
──プレミアム生誕祭にゲスト出演する森若香織さんとは、森若さんがアマチュア時代から面識があったとか。
KEITH:そうそう。ARBが札幌へ行くと観に来てくれてね。札幌にミルクというスタジオがあって、彼女はそこに出入りしてたんだよ。後から聞いたら、GO-BANG'Sのベースとドラムの子(谷島美砂、斉藤光子)がARBのファンで、森若ちゃんはロッカーズのファンだったみたいだね(笑)。
──同じくゲスト出演される内海利勝さんとも接点があるとは意外でした。
KEITH:ウッチャンがキャロルをやめた後に知り合うようになったんだけど、つのだ☆ひろさんたちのマネージャーがウッチャンのマネジメントをやることになってね。その縁でウッチャンがジャマイカに行ってレゲエを録ってきたアルバム(内海利勝&ザ・シマロンズ『ジェミニ』)に呼ばれて、そこで仲良くなった。
──プレミアム生誕祭はGroovin'がホスト・バンドを務める形ですか。
KEITH:うん。Groovin'が母体となって何曲かやって、森若ちゃんとウッチャンにそれぞれ入ってもらう感じだね。
──40周年記念ライブ同様、叩きっぱなしになるわけですね。
KEITH:でも、あの40周年記念ライブも全然疲れなかったんだよ。楽しかったからかな。昔なら間違いなく疲れてたはずだけど、今は合気道を習ってるし、普段からよく歩いてるし、体力は昔よりもあるんだよね。オレンジ・ペコでデビューして今年で46年、体のあちこちを手術して順風満帆とは言えないドラマー人生だけど、まだまだ叩きたいね。だから今がいちばん練習してるのかもしれない。ほとんど毎日スタジオに入ったり、ドラムを習いに行ったりしてるから。叩くことが純粋に楽しいのもあるけど、練習を怠るとすぐに体が動かなくなりそうで怖いんだよ。
──67歳を迎えつつある今がいちばんドラムに対してストイックなんですね。
KEITH:そうだね。タバコも酒もやめたし、現役なのはドラムとこっち(小指)だけだから(笑)。ずっと現役でドラムを叩きたいし、1日でも長くドラムを叩き続けたいし、ここで諦めたくない。ずっとARBをやってこれたのはみんなに育ててもらったおかげだし、楽曲がまだある以上はやり続けたい。ただそれだけなんだよ。そうでないと、もうとっくにやめてるんじゃないかな。俺はテクニックがあるわけでもないし、どれだけ練習しても「まだダメだな」と恥ずかしい思いをする。だけど満足したらそこで終わりだからね。どうやって自分のスタイルを確立するか、どうやったらもっと気持ち良く叩けるか、コツコツと地道にやり続けるしかないんだと思うよ。いくつになっても日々練習、日々探求だよね。