日本語でロックを唄っても別にいいんじゃない?
──外道をプロデュースしたミッキー・カーチスさんとはどんな経緯で知り合ったんですか。
加納:どっかのデパートの屋上でつのだ☆ひろのバンドか何かと一緒にライブをやってた時に、ミッキーさんと裕也さんが僕らを観に来たことは覚えてるんです。ある時、横浜の野外音楽堂でのライブをミッキーさんが録りに来るって言われたんですよ。僕はレコードなんて全然興味がなかったし、「録りたかったら録ればいいよ」くらいにしか思わなかったんですね。すごいバンドは作りたかったけど、レコード盤を出したいとか有名になりたいとかは全然思ったことがなかったんです。ただ、どんなバンドと共演しても絶対に負けないバンドを作りたかっただけ。そしたらいつの間にか僕らのレコードが出て、ヒットしちゃったんですよね。
──どれくらい売れたんですか。
加納:ストーンズが7,000枚、ツェッペリンが8,000枚売れてた時代に何万枚も売れて、すごいヒットだったみたいですね。
──そんな他人事みたいに(笑)。ボール紙に「外道」とスタンプを押しただけのジャケットは誰のアイディアだったんですか。
加納:ミッキーさんです。出すのに時間がないし、お金もかからないってことであんな形になったんです。トリオ・レコードへ行ってみんなで判子を押すのを手伝いましたよ。そもそも制作費だって全部で60万円くらいしかかからなかったんです。ただライブを録りに来ただけでしたからね。だけどあんなに売れるとは考えてもみなかった。レコード会社は宣伝を一切しなかったんですよ。バンドが全国でライブをやることが一番の宣伝だったんです。決定的だったのは福島の『ワンステップフェスティバル』に出て、外道を観たオノ・ヨーコさんが裕也さんに「すごいバンドがいる!」と言ってくれたことでした。それで裕也さんが僕らに会いたいと言ってきて、いざ会ってみたら裕也さんは僕のことを覚えていて。
──それまでに面識があったんですか。
加納:僕が16歳の頃、ハコバンでギターを弾いて全国をまわってたんです。裕也さんとは巡業先の広島で共演したんだけど、次のバンドが来ないからまだちょっといてくれないかって裕也さんがオーナーに頼まれて電話で言ってきたんですよ。そのことを裕也さんは覚えていて、『ワンステップフェスティバル』の後に会ったら「あの時のお前か!」って言われたんですね。
──ミッキー・カーチスさんはプロデューサーとして何かアドバイスをくれたりしたんですか。
加納:何にもしないですよ。ライブの現場にやって来て「もう最高!」って言うだけ(笑)。だからアドバイスも何もないんだけど、「日本語でロックを唄っても別にいいんじゃない?」とは言ってくれました。裕也さんは「ロックは英語で唄うべきだ」と頑なに言ってたけど、ミッキーさんは英語も喋れるのに日本語でロックを唄うことに肯定的でした。それと、欧米の音楽の情報を僕にいろいろと教えてくれましたね。外道のオープニングSEである「Slush」は、モンティ・パイソンのニール・イネスがやってたボンゾ・ドッグ・バンドのレパートリーなんですけど、そのボンゾ・ドッグ・バンドのライブをミッキーさんがヨーロッパで観たことがあって、それが面白いってことでオープニングSEに使うことにしたんです。向こうに使わせてくれって連絡を取って、許諾をもらってね。
──加納さん自身は外道のファースト・アルバムをどう捉えているんですか。
加納:新曲をやることになったステージをたまたまミッキーさんが録りに来たってだけですね。これがデビュー・アルバムになるとか、何にも気にしてなかった。自分としては何曲も新曲をやったステージってだけです。「やさしい裏切りを」(のちの「やさしい裏切りの果てに」)なんてライブの前日に作った曲で、メンバーもライブでやることを知らなかったんですから(笑)。当時からキャンピングカーを持ってて、車の中でメンバーと「こんな感じでやるから」って話しながらアコースティック・ギターで練習してたんですよ。アコースティック・ギターで曲作りをして、それをエレクトリック・ギターに持ち替えて、ぶっつけであれをやってたんです。
《後編へつづく》
(Rooftop2018年11月号)