人には誰しも悲願があるとすれば、ロフト・グループのオーナーである平野悠にとっての悲願は、山下洋輔をもう一度ロフト系列のライブハウスに登場させることであったとしても決しておかしくはない。日本を代表するジャズ・ピアニストである以上に、60年代からの日本のポップカルチャー史が、実はこの人を起点に動いていたと言っても過言ではないほど多種多様の才能が彼によって導かれた実績があり、しかも今回のインタビューを読むとロフト・グループの歴史とも密接に交差しているのが実感できるはずだ。そして同様に山下洋輔の思考や発想が平野悠に与えた影響の過大さも読み取れ、このインタビュー自体そのものが結果として平野悠を解釈するサブテキストとしても成り得たのが個人的には最大の収穫である。(取材・文:吉留大貴/写真:大参久人)
時代のパッションが自分たちに味方してくれた
──本来なら、ロフト・グループ系列のライブハウスへの出演が何年ぶりか聞かなければならないのですが、正直言って覚えていませんよね?
山下:もう40何年も前のことですからね(笑)。たしか荻窪ロフトの後に、新宿ロフトができたじゃないですか。僕の記憶のなかでは当時新宿ではよく討論会をやっていて、何かと参加していたのは覚えているんですよ。ただ客席にいることも多かったし、おそらく当時の記録にもあまり残っていないはずなので、それがいつだったのかと言われても自分でもわかりません(笑)。でも僕の本にも書きましたが、荻窪ロフトがあった頃、近くの天沼に住んでいたので母子で客席に来たんですね。それでドシャメシャ音楽を聴いたわけですが、その最中に息子が「おせんべ! おせんべ!」と大声でわめいたということがありました。一体どんな頭の回路をしていたのか、ま、受けたとは思うんですが(笑)。荻窪ロフトと言えば、まずその記憶が思い出されますね。
──ロフト・グループのオーナーである平野悠さんが書かれた『ライブハウス「ロフト」青春記』(2012年、講談社刊)によると、洋輔さんが、「実は自分は毎朝2〜3時間ピアノの指の練習をしているんだけど、最近子どもが邪魔しに来て練習ができない。それで、荻窪ロフトのグランドピアノを午前中だけ貸してほしいのだが」とお願いされていたそうですね。
山下:なるほど! そんなことをお願いしてたんだ(笑)。いやぁ、よっぽど親しかったんですね。これは平野さんが言われる通りだと思います。たぶん当時、誰か知っている人にピアノを借りられないかと相談していたなかで、平野さんに助けられたんでしょうね。
──その当時の洋輔さんと荻窪ロフトの親密さと言うのは、山下洋輔トリオの事務所であったテイクワンを運営していた柏原卓さんと阿部登さんが荻窪ロフトに出入りしていたことに起因するわけですよね。
山下:そうなんです。彼らは当時始まっていた日本のロックやフォークの人たちともすごく親しかったんですけど、その一方で僕のことも面倒を見てくれていた。最初は事務所のない状態だったんですが、彼らがシュガー・ベイブを率いる山下達郎さんのいるマンションに同居するなどして、だんだん形になったんですね。
──洋輔さんのいくつかの著作を読むと、当時の山下洋輔トリオは同時代のフリージャズ・シーンからも明らかに逸脱した存在であるのが伝わってきますが、その状況を柏原さんや阿部さんは逆手に取って、ロックやフォークのイベントにブッキングすることで、従来のジャズのフィールドとは異なる支持を得たという側面もあったように見受けられますよね。
山下:その解釈が正しいですね。山下洋輔トリオは1969年にできたんですが、その頃から柏原と阿部が面倒を見てくれて、お世話になっていた音楽評論家の青木誠さんの協力もあって、ヨーロッパ・ツアーに行くことができてようやくその後の展望が開けたんですが、平野さんたちも含めて彼らはその状況を作ってくれた恩人なんですね。阿部は関西人だから、たぶん「山下洋輔トリオはジャズちゃいまっせ、彼らはロックでっせ!」とか言って、すごく動員数のある野外フェスの仕事をいくつも取ってきてくれたんでしょうね(笑)。もちろん僕たちも出演したら、どんな場所でも全力でブチかましてきた。今から考えると、そのようなライブを積み重ねたことが良かったのですね。
──おそらく当時のジャズ・シーンには、山下洋輔トリオが放熱していたパッションが過剰すぎたのかもしれません。
山下:ジャズ・シーンではなく、あの頃の時代のパッションが自分たちに味方してくれたのかもしれませんね。「とにかくブチ壊す奴がエラい!」、「普通のことをやってる奴はバカだ!」という時代だったことが後押ししてくれたこともとても大きかったと実感します。
──しかも当時の洋輔さんには、相倉久人さんや平岡正明さんといった、バンドの行動に対する強固な理論武装を含めての位置付けを可能とした強力な論客まで集結していたことも含めて、のちの日本のポップカルチャー界に多大な影響を与えた面々が、作為的な意図もなく集っていたことがわかるのがすごいんですよね。
山下:そういった意味では、もちろん平野さんも含めて、当時出会った人たちすべてのおかげで今があるのは間違いないですね。
ロックやフォークの人たちが個人的なことを唄うのは驚かされた
──以前、キーボーディストの難波弘之さんから、「自分は山下洋輔さんのファンで、70年代の日本のロック・シーンは山下さんの多大なる影響があった」と聞いていますし、当時の山下洋輔トリオのライブを観た方からは、「紛れもなく時代のヒップスターだった」という声も数多く聞いています。ただ一方で洋輔さん自身も、まだ未分化であった状態の日本のロックやフォークと共演したことで、聴く機会もあったと考えられます。現時点から思い返してみて、ご自身も影響を受けられていたと思われますか?
山下:やはり大きな影響を受けていたと思いますよ。何と言っても、自分の音を自分勝手に表現するというところですね。なかでも僕が最も驚かされたのが、ロックやフォークの人たちは、とても個人的なことを唄うじゃないですか。こちらは演奏する側だったから、「どうして彼らはこんなことができるんだろう?」と考えましたね。しかも野外フェスに行くと、そういった歌を聴くことで多くの観客の情熱の反応を体験する。一体このジャズとは異なる力はどこから来るのだろう? そういった状況を自分なりに考えたことが、のちの僕の音楽の伝え方を変えたのかもしれませんね。
──そのなかでも、特に印象に残っているシンガー・ソングライターの方はいますか?
山下:近年また交流が始まった岡林信康さんですかね。当時はまだ距離がありましたけど、それでも『山谷ブルース』とかを聴けば、反応せずにはいられなかったですね。それと、今でも親交がある山下達郎さんですね。同じマンションを事務所にしていたと言いましたけど、当時、仕事が多かったのは僕のグループだったんですよ。後年になってからの冗談だけど、家賃の大半は山下トリオのギャラで賄ったとか、その事務所は坂本龍一さんもよく出入りしていたので「龍一と達郎を食わせていたのはおれだ!」などとイバったりする"老人現象"が出たりする(笑)。
僕は筒井康隆さんからも長年大きな影響を受けているのですが、1976年に筒井さん原作の『家』という作品を音楽化した。それには大貫妙子さんや、タモリがアルバムに初参加してくれたんですけど、要するに僕の事務所関係や周りにいた仲の良い連中が集まって作ったアルバムだったんです。そのレコーディングの時に、忙しかった達郎さんがわざわざ聴きに来てくれたんです。ジャズっぽいサウンドのストリングス・アンサンブルの場面だったのですが、「これは素晴らしい!」と言ってくれた。けっこう複雑なハーモニーだったんですけど、そういうものを理解してもらって嬉しかった。彼が今でも第一線で活動しているのは、そのようなセンスを保ち続けているからでしょうね。
──坂本龍一さんのお話が出たので、お伝えしたいことがあるんです。2009年5月5日にタワーレコード新宿店で、洋輔さんと坂本さんのお二人でジャズについての対談をしましたよね。実はその際に、自分は平野さんと観に行っていたんです。だけど二人とも新宿のジャズ喫茶についての話はしても、荻窪ロフトの話はまったく出なかったから、平野さんはとても寂しそうにしていました(笑)。
山下:それは失礼しました(笑)。事前に言ってくれたら二人とも喜んで荻窪ロフトの話をしたのに(笑)。どこか普通の文脈ですっと出てくる場所ではない、特別なものなのですね。