君は伝説のoiパンクバンド"捕虜収容所"を知っているか? 売れっ子放送作家・鮫肌文殊率いる、80年代の大阪パンクシーンでカルト的人気を誇った"ホリョシュー"が、なんと24年振りにニューアルバムをリリース! なぜ今、再始動なのか? 体力的に大丈夫なのか?(笑)当時の大阪パンクシーンの思い出と共に、鮫肌氏に語ってもらいました。【interview:石崎典夫(LOFT9 Shibuya)】
再始動した理由とは
――24年振りの新作、聞かせて頂きました! 最高ですね、イイ音で聞く『チンコマンコ音頭』は(笑)。
鮫肌文殊(以下、鮫):そうですか、ちゃんとレコーディングしたからね(笑)。
――まず、Rooftop読者の為に“捕虜収容所”とは、どういうバンドかというお話からお願いします。
鮫:もともとは僕が高校生の頃、1982年に結成しまして、当時は文化祭バンドでアナーキーのコピーとかやってたんですけど、それからオリジナルを書き溜めて20歳ぐらいの時に大阪のライブハウスに初めて出て、それこそ難波ベアーズとかその辺のアングラシーンにズブズブ入っていって……。例えばボアダムスのデビューライブで対バンしたりとか。
――え、そうなんですか!
鮫:あと、アマリリスとか、少年ナイフとか。関西のシーンってものすごく狭いんで、1人友達になるとみんな芋づる式に友達になるんで、そのシーンで色々やってたんですけど、その内バンドブームが起きて、皆メジャーデビューとかしていくんですけど、僕らのバンドだけ代表曲が『チンコマンコ音頭』なんでそんな話も一切なく(笑)、大阪でシコシコやってたんですよ。
――その後に放送作家デビューされるわけですか。
鮫:そう、僕が24歳の時に東京に出て、そのタイミングでバンドも休止したんですけど、やっぱり未練があったんで、1993年に『GREAT COCK HITS』っていう1stアルバムを出したんですよ。それがパンク雑誌の『DOLL』で激賞されたりして、一部カルト的なファンが付いたんですけど、それから活動したりしなかったりの時期が続いて、ちょうど12年前かな、バンドメンバーが死んじゃって、自殺しちゃったんですよ……。それがショックでしばらくバンドを休止してたんですけど、ちょうど僕が50歳になった時、以前、中島らもさんがね、「50になったら俺、好きなことやる」って言ってたのを思い出して。らもさんって50歳になってから、エンターテイメント的な小説をやめて、純文学的な小説を書き始めたり、本当に好きだったバンド活動を始めてみたり。
――前に鮫肌さんにインタビューさせてもらった時の記事(Rooftop2016年11月号)にもありますよね、すごく印象に残ってます。
*鮫肌文殊インタビュー「それぞれの心の中にいる中島らもがイベントで復活!」(Rooftop2016年11月号)
鮫:らもさんに倣って、僕も50歳になった時にそういう宣言するのおもろいなと思って。テレビの仕事はあるんですけど、他にやりたいことはなんだろって思った時に、本を書くことと、バンドをやることで。バンドは捕虜収容所があるから久々にメンバーに声掛けて、それで去年かな、12年振りぐらいに集まって練習してリハやって、今年やっとアルバムを作ったんですよ。その7割が死んで行ったメンバーが作った楽曲なんです、それを形にして残してあげたかったというのがあって……。ある種の弔い合戦みたいな。それが24年振りにアルバムを作ろうと思った動機でもあるんですけど、それでまぁ1年間リハビリで練習を重ねて、やっと皆さんにお見せできるレベルに戻ってきたんじゃないかと。
――去年、新宿JAMでやったライブ映像を拝見しましたけど、すごい鬼気迫るものを感じましたよ。
鮫:あれはまだリハビリ中で(笑)、とりあえずライブをやってみようかと、知り合いの山内圭哉くんが誘ってくれて出たんですけど、ほんとね、バンド始まって以来ですよ。あんなにお客さんがいる中でライブしたのは(笑)。
「ウンコ撒いていいですか?」
――捕虜収容所のFacebookページもできてますよね。あれで好きなのが当時の大阪パンクシーンの話で、クレイジーSKBがライブ前に「ウンコ撒いていいですか?」って聞いてきた話とか(笑)。
鮫:そうそう、当時そんなのばっかりで、ライブ前日にバカ社長から電話が掛かってきて、「明日ウンコ撒いていいですか?」ってマジなんですよ(笑)。「ちょっとウンコはやめてくれるかな」ってこっちも真剣なトーンで答えたら、「じゃあ、わかりました」って、どういう会話やねん(笑)。当時のパンクシーンではそれが当たり前でしたから。
――“大阪のパンクシーン”って、それだけで独自のものを感じますよね。
鮫:当時の大阪のライブシーンって、ひとつのバンドがひとつのジャンルなんですよ、ボアダムスはボアダムスというジャンルであって、この人たちはどういう音楽を聞いて育ったのかが全く分からない、お里が知れない所があって、個性的なバンドが多かったですね。未だにホームにさせてもらっている「難波ベアーズ」という“魔窟”みたいなライブハウスがあるんですけど(笑)、大阪ですら相手にされなかったバンドが、店長の山本精一さんという磁場の下に集まってくる(笑)。当時、保山宗明玉という人がいて、その人はお客さんなんですけど、ものすごく個性的な踊りをするので、客である保山さんに追っかけが付いて、今度こういうライブを見に行きますって保山さんがチラシ配ったら、保山さん見たさにお客さんが来るという(笑)、そういうよくわからん状況もありましたね。
――鮫肌さんから見て、ボアダムスの山塚アイさん(現在の表記は「EYE」)って、どんな方でしたか?
鮫:僕ら同じ近畿大学で、アイちゃんが学年が1つ上なんですけど、すごく先輩面してくるんですよ(笑)。で、ずっと僕のことを“鮫肌くん”って呼ぶんで、彼と親しい人に聞いたら、山塚は自分がバカにしている人を“くん”付けで呼んで、認めてる人は呼び捨てで呼ぶって聞いて、それ聞いてものすごくショックで、ずっとアイちゃんにバカにされてたのかと(笑)。あと山本精一さんもホントにスペシャルなミュージシャンですけど、まぁ変わり者で、すっごいネガティブなんですよ。「鮫肌くん、全然あかんわ」、「何もやる気せぇへんわ」とか、前向きな言葉を聞いたことがない(笑)。その2人は当時から目立ってましたね。
COBRAとの出会い
――鮫肌さんの音楽的ルーツもお聞きしたいんですけど、最新作のジャケットも収録曲も“COBRA”感がすごくて最高なんですけど、どういった流れでCOBRAに辿り着いたんですか?
鮫:僕らの世代でパンクといえばアナーキーとかスターリンとかなんですけど、その辺を全部聞いている内に80年代にハードコアパンクと出会うわけです。当時の大阪ならラフィンノーズとか、その後に「ハードコア不法集会」というすごいアルバムが発売されて、そこにCOBRAが入ってたんですよ。そこで初めて“Oi PUNK”を知って衝撃を受けて。ハードコアばっかりの中でCOBRAだけロックンロールをやってたんですよ。それがすごく新鮮で、それから邦盤・洋盤問わず“Oi”って付くレコードを片っ端から買い集めて(笑)。それが19歳の時ですね。
――でも歌詞だけはCOBRA色が一切しないという(笑)。
鮫:作詞はね、全部僕なんですけど、別に意識して下ネタをやろう思ってないんですけど、僕が書くとこうなっちゃうんですよね(笑)。
――自然とこうなっちゃうんですか。
鮫:そう、自然と。意識してチンコマンコの歌を歌おうとか、そういうことじゃないんですよ、自然とこうなっちゃう。ダメだなとは思いますけど(笑)。でも他のバンドが絶対に歌わないことを歌おうとは思っていて、僕らが人生の応援歌とか歌っても仕方ないじゃないですか(笑)。
――どうした? って、なりますよね。
鮫:そんなこと歌う必要もないし、ずっとストリートに立ってるんだぞとか俺らが歌ってもねぇ。
――ON THE STREETだぞと(笑)。
鮫:そう、俺らただのおっさんやからな(笑)。
――今後ですけど、ライブも色々と決まってますし、でもまずはCDを聞いて欲しいですよね、とにかく曲がいいので、何の予備知識がなくても純粋に盛り上がれる1枚だと思います。
鮫:僕ら24年前に出した1stアルバムは、1000枚作ったんですけど、それがようやく完売したんですよ。なので、今回のアルバムも完売するまでに24年掛かったら死んでしまう可能性があるので(笑)、なんとしても皆さん買ってください!