サンハウスの新宿ロフト初演は77年。以来、数え切れないほどチェッカー模様のステージに立ち、またバーカウンターで多くのアーティストと親交を繋いできた、柴山俊之と鮎川誠。今もロフトでのライヴを目指すと意気軒昂な二人が口を開けば、おのずとロフトの歴史が見えてきた。[interview:今井智子]
真ん中に潜水艦が置いてある時のロフト
ーお二人も新宿ロフトは40年前の開店当時からのお付き合いかと思いますが。
柴山:うん、サンハウスの時に出た。
鮎川:真ん中に潜水艦が置いてある時のロフトやった。77年の冬ぐらい(77/12/03 ドライブサンハウスライブ)。
ーその時のことで覚えていらっしゃることありますか。
柴山:あまり覚えてないなあ。
鮎川:サンハウスが、最後のメンバーになってね、川島(一秀:Ds)と浅田(孟:B)がメンバーの新しいメンツになって出たのを覚えてる。ビクターの高垣さん(ビクターでのシーナ&ロケッツ担当ディレクター)も來てくれとったね。それがサンハウスの最後の東京でのライヴやった。その前にサンハウスは、荻窪ロフトに出たね。レコーディング・メンバーの時代に。
ー荻窪ロフトは新宿ロフトより狭かったですよね。
鮎川:新宿ロフトに出る前やけん、ライヴハウスって、あんなもんやろうと思った。喫茶店にアンプ詰め込むような、そういう感じやね。新宿ロフトは、ちゃんと立派なステージがあって、楽屋があって。今の時代のライヴハウスちゅう感じやね。
ー九州が活動基盤のサンハウスにとって、新宿ロフトはどういう風に見えていたんでしょう?
鮎川:ロフトは知っとるよね、もちろん。東京に来た時にライヴやるところは、こっちの人が決めてくれて、いろんな場所で俺たちサンハウスやったけど、そん中でも新宿ロフトは絶対知っとるね。
ー78年にサンハウスは解散して、鮎川さんはシーナ&ロケッツとして上京されますね。
鮎川:当時手伝ってくれてた仲間に、いきなりロフトでね、”鮎川誠&ミラクルメン”という名前でブッキングされた(78/08/12)。僕たちの最初のステージやったね。
柴山:俺、それ見に行ったもんね。
鮎川:柴山さん見に来て、「Talkin'bout you」やらやればいいのにとか言うたもんね。
柴山:うん、「I wanna be your man」やらね。
鮎川:サンハウスのカヴァーと、「涙のハイウェイ」だけをやろうとしたら、シーナが「もうインストでしとき今日は」とか言って。ああそうかって。
ーその時はシーナさんが歌ってるんですか。
鮎川:歌ってる。「夢見るボロ人形」もやったし「スージーQ」もやった。新井田(耕造:Ds)くんとか、東京のメンバーやったんよ、その時は。
ーやはりロフトとは因縁があるんですね。
鮎川:プラスティックスやらとも、よくやったしね(79/02/25「LP発表会大セッションパーティ」鮎川誠&SHEENA ROCKET'S ゲスト:山本翔/佐久間正英&プラスティックス)。東京ロッカーズの集まりごとにもよく俺は行きよったなあ。70年代の終わりよね。
ー柴山さんも上京していらしてたんですね。
柴山:うん、俺の方が先に東京に来てた。出てきよったというか遊びに来て、そのまま居っただけの話や。
ー新宿ロフトに頻繁に顔を出すようになったのは?
柴山:石橋凌が近所に住んどった。俺は初台に住んでて、ロフトでやるから見に来てくださいって言われて、行ったりとか。西新宿の頃。最初はそんな感じで行きよったね。
ー伝説となっている、ライヴが終わっても朝まで飲んでるみたいな?
柴山:そうそう、ひとのライヴが終わった後に、勝手に行ったりしよったね、全然関係ないのに。あの頃、潜水艦なかったね?
鮎川:なかった。チェッカーボードの柄のステージになってた。
ー鮎川さんも新宿ロフトで朝までとか?
鮎川:なかったね、俺は飲まんし。音楽を聴きに行ったり、ひとに会いに行ったりしたけど。
サンハウスじゃなかったけど、結果サンハウスになった
ーご自身の新宿ロフトでのライヴで印象に残っているのは?
鮎川:98年の夜中にやったのが凄かったね。サンハウスで、ミッドナイトライヴやった。あの時は、お客さんが沢山沢山来てくれて、頭の波が出来とったからね。じゃがいも洗うみたいに、グワーッとなってた。
(98年2月22日深夜に行われたサンハウスのシークレット・ライヴ。3月1日に福岡サンパレスで行われる「伝説ライヴ」のリハーサルとして行われたもの。後に「SONHOUSE MOONSHINE BOOGIE Live at Shinjuku-Loft 1998」としてDVD化された)
柴山:そう、真夜中2時ぐらいから明け方まで、したよね。
鮎川:時々思い出す。あの時、インターネットはあったけど今みたいにFacebookやらない時代に、急に決めたインスタント・ライヴやったのに、どうしてあんなに集まってくれたんやろうって。北海道からも来とったね、大騒ぎしよった。
柴山:よく来たよね、サンハウス再結成の予行演習で出ろうと思ってさ、前の日かなんかに発表して、夜中にちょっとやれたらいいねって、やったら一杯来て。
ー西新宿のロフトが立ち退きで揉めてる頃ですね。99年4月に歌舞伎町に移転します。
鮎川:そう、移転する前に、シーナ&ロケッツ最後に出してもらったね。(99/03/16 新宿ロフト最後の日)
ー話が前後しますが、THE ROCK BAND仲野茂さんが柴山さんとPANTAさんに声をかけて始まった「THE COVER」第1回が87年5月7日、そこで出演してないサンハウスのカヴァーを演奏したそうで。
鮎川:ああやったね、うん。
柴山:「THE COVER」の時、したね。あの時はギターが下山かな。花田を入れてしたこともあるねよね。(82/12/31 LOFT Special82-83 1984(柏木省三/安藤広一/井島末吉/花田裕之/井上潤二/石井聡互/柴山俊之ほか)
鮎川:サンハウスじゃなかったけど、結果サンハウスになった。鬼平(坂田“鬼平”紳一サンハウス)の還暦のライヴの時も(2010/11/13)。あの時も沢山出たもんね。
ーそういう時には、新宿ロフトがいいということになるんですかね。
鮎川:そう、やっぱりロフトやろうね。ロックを、しっかり受け止めてくれるクラブ、安心してできる。
柴山:老舗みたいなもんやしね。なくなったりしてないから、移っただけで。
またいつか出たいと思って、また俺たちもロックをぶっ飛ばす
ー移転後も、ロフトは何か独特案雰囲気があると思うんですけど。
柴山:前の方がひょろ長くて見通しが良かったけどね。
鮎川:前やったらさ、いわゆるロックの、ニューウェイヴの頃のアメリカの、CBGB'sやらRITZの前とかCAT CLUBとか、クラブの前にタムロするやん。それでバチッと写真撮ると、CBGB'sとかの看板とともに、ロッカーがウヨウヨ表におると。そういうのからすると、小滝橋の時は、本当にロックらしかったね。今はちょっと通行の邪魔になるちゅうか。あの前で事が起こってるのが地上に伝わらんやろ。そこはもったいない。ワクワクするのは、そうやってお店の前あたりに早くあらきてる人が一杯いたりさ、立ち話の輪ができていたり。で、そろそろ入ろうぜみたいに、みんなソロゾロ入っていく。そういう、日常から繋がって、いきなりドン! とクラブで爆発する、そういうのがいいよね。
柴山:前は地べたに座っとったもんねえ。ああいうのは今できないね。
ーそういう空気もあって、お客さんと親密な空気が出来たり、アーティスト同士も。
鮎川:知り合ったりね、声かけあったりして。
ーロフトだから知り合えた人もいるでしょうね。
柴山:アナーキーの連中とかみんなそうだもんね。あそこで知り合ったようなもんだもん。あの時代って、あそこしか許されるところがなかったというかさ。バンドマンのカスみたいなのが一杯おっても怒られない(笑)。
ーそんな新宿ロフトも40周年なので、一言いただけますか。
柴山:俺は、ずっと続けてくれればいいかな。ここまで来ればつぶれんやろう。
鮎川:頑張ってもらわんと。みんなロフトを目指す。俺たちでもまだロフトを目指しよるからさ。ロフトに似合う音があると思う。ロフトが作る音もあるしね。ロフトでいい感触を得て自信を持つとかもあるんよ。ステージは魔物やけん、それで守るものでもあるからね。そういう意味でロフトがずっと音を途切らさんでやってきてことに、心から敬意を表するし、感謝やね。40年て口で言うのは簡単やけどさ。ロフトがあるけん俺たちも安心してやれるちゅうかさ。またいつか出たいと思って、また俺たちもロックをぶっ飛ばす。
ー10月1日の中野サンプラザに向けての抱負はいかがでしょう。
柴山:俺はサンハウスでやって以来かな。
鮎川:素晴らしいバンドが一杯、ロックンロール・ジプシーズやらロッカーズやら、それに浅井健一のJUDEも出る。新しいロックも素晴らしいけど、こっちも生き残ったロックが出るし。日本でね、長うやるロックに認知が、また高まればまた嬉しいことやし。よく選んでくれたと思って、これも感謝ですね。中野サンプラザに出られるやら、夢にも思わんかった。YMO以来です。