観客は、自立した能動的な「鑑賞者」
──そして、いよいよ工場に2人の中国人がやって来るわけですが、ここから彼らが仕事を覚えようとしているシーンはかなり長く撮ってますね。
想田 僕は彼らにどうしても感情移入しちゃうんですよね。やっぱり23年前の自分を思い出すというか、僕もアメリカに一人で乗り込んでいったという経験があるから。まあ僕よりも彼らの方が断然不安は大きいと思います。言葉が全く通じない所に働きに行くわけだから。
──中国人が仕事を教わっている一方で、漁師の子供達が中国語の勉強をしている姿もすごくいいですね。
想田 いろんな世代の人がいるということの意味を感じますよね。世代の違いによって受け止め方も変わってくるだろうし、だからこそ社会というのは状況に応じて変化していく。社会が重層的であることの必要性がわかる場面です。
──ちなみに、牡蠣工場の中国人労働者は、外国人技能実習制度を利用してやって来たんですが、時々報道されるような外国人労働者に対する搾取の問題などはなかったんですか?
想田 僕が見た限り、牛窓ではそういう風には見えなかったですね。中国人を受け入れる側も一生懸命だし、なるべく快適な生活をしてもらおうという努力もしている。実習生の問題という括りの中だと、我々はすぐに冷酷な経営者という顔のない記号的なものを想像しますが、この映画では、外国人労働者を受け入れる側も「顔の見える存在」として描けているんじゃないか。そもそも労働問題を告発するのが目的だったらこういう映画にはならないですよね。そういうのはマイケル・ムーアに任せておけばいい(笑)。
──想田さんに社会問題を告発する映画を撮って欲しいという要望も多いと思いますが。
想田 あんまり食指が動かないですね。僕は映画や芸術で政治的なメッセージを伝えようとは思っていません。僕のことを、文章やツイッターの政治的な発言で知った人にとっては意外かもしれませんが。映画に社会的なメッセージを求める人にとっては物足りないかもしれないです。でも僕は映画で世の中を変えようとか全く思ってないからね。結果的に変わるならそれはいいと思うんですが、それが目的ではない。僕はあくまでも世界を描写したいという気持ちしかないんです。
──それが観察なんですね。
想田 そう。価値判断はしない。観察というのは自分に見えたままということですから。そこでいいとか悪いとか、こうあるべきとか、それは観察には含まれない。別の段階のことです。もちろん観察は自分の見たものだから主観が入ります。違う人が見たら全く別のものに描かれるだろうし、僕の主観であることは確かなんですが、そこに価値判断は入れないようにしています。
──あくまで監督の主観ではあるものの価値判断は入れないというのが観察映画の1つの醍醐味ですね。ちなみに想田監督がこの映画制作の真最中だった頃は国会で秘密保護法の審議がされている時期でしたが、当時のコラムに「秘密保護法案が通れば、その影響はいずれ確実に牛窓の漁師の生活にも及ぶ」と書いています。
想田 そう思いますよ。だって秘密保護法が通るということは、情報が出てこなくなるということですから。本当は主権者が知るべき情報なのに、それが知らされなくなる。そうなった時の影響は計り知れないでしょう。
──監督は「その因果関係は複雑すぎて見えにくい」とも書いてますが、それを見ようとするかどうかが観察映画にとって大事なのかなと思います。観る側にも観察する力が求められるというか。
想田 そうです。僕は観客として、自立した能動的な「鑑賞者」を想定しているので、観る時のハードルは高いと思います。よく言うことですが、作り手である僕がピッチャーであるならば、観客はキャッチャーではなくバッターだと。ボールを受け取るのではなく、バッターボックスに立ってバットを振ってもらう。あるいは見逃してもらう。バットを振って当たれば球はいろんな方向に飛んでいきます。僕はその球の飛ぶ軌跡を見たいんですね。
──著書『熱狂なきファシズム』で、今の安倍政権に見られるファシズム的な政治に対して「一人一人が目の前の現実を見て、よく聴くことが、熱狂なきファシズムの解毒剤になる」と書いてますが、そういうことですか。
想田 それと同じことを映画でも想定しています。鑑賞者は主権者と読み替えてもいいんですが、自立し、主体性を備えた個人ということですよね。僕は「離乳食映像」と呼んでいるのですが、作り手がなんでも懇切丁寧に説明して、観客に届ける前に分かりやすく噛み砕いて、まるで離乳食のようにスプーンで口の中に入れてあげる、そういう映画やテレビ番組が多い気がするんですよね。しかも人間というのは基本的に怠惰な生き物なので、離乳食映像を与えられ続けると、必然的に観客は受け身になってしまうんです。僕はそういうものではなく、もっと噛みごたえのあるものを差し出すので、後は自分の歯で噛み砕いて欲しい。栄養はあるはずですから(笑)。
【プロフィール】
想田和弘(そうだ・かずひろ)
映画作家。1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒。スクール・オブ・ビジュアルアーツ映画学科卒。93年からニューヨーク在住。NHKなどのドキュメンタリー番組を40本以上手がけた後、台本やナレーション、BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。 著書に「精神病とモザイク」(中央法規出版)、「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」(講談社現代新書)、「演劇VS映画」(岩波書店)、「日本人は民主主義を捨てたがっているのか?」(岩波ブックレット)、「熱狂なきファシズム」(河出書房新社)、「カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論」(集英社インターナショナル)、共著に「街場の憂国会議 日本はこれからどうなるのか」(晶文社)、「原発、いのち、日本人」(集英社新書)、「日本の反知性主義」(晶文社)など。最新刊「観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること」をミシマ社より刊行。
【書籍情報】
観察する男
映画を一本撮るときに、監督が考えること
想田和弘(著)/ミシマ社(編)
発刊:2016年1月22日
販売価格:1,800円+税
判型:四六判並製
頁数:264ページ
装丁:尾原史和(SOUP DESIGN)
ISBN:978-4-903908-73-1 C0095