Rooftop ルーフトップ

INTERVIEW

トップインタビューうつみようこ×中川敬(Rooftop2015年8月号)

何かと相対化して自分達のありようを決めるのではなく、もうハナからやりたいことを徹底してやるっていうバンドやった。(中川敬)

2015.08.01

浮いてましたね。最初っから浮いてた。

 
――東京だったらメスカリンみたいなバンドは出てこなかっただろうなぁ。
中川:関西でも他にいなかった。
――あ、そうだね。逆にどこででもメスカリンなら出てきたのかもしれない。周囲なんか気にせず。ちょっと順序が逆になっちゃったけど、そもそもようこちゃんはどういう経緯でメスカリンに?
うつみ:私は大学生で。先輩がハードロック・バンドやってて。たぶんそのバンドを観に、ヒデちゃんとケイトとリリィが学祭に来て。そしたら私が野外ステージで歌ってて、「あの子を紹介してくれ」ってなって。
――ようこちゃんが野外で歌ってたら、そりゃ声が響いてきただろうなぁ。
うつみ:それで後日、梅田で待ち合わせして。行ったら前方からストリート・スライダーズとハノイ・ロックスとストロベリー・スウィッチブレイドみたいな3人がいて、頼むからあの人達じゃないようにって思ったけど、その人達やった(笑)。
中川:3人やのに10人ぐらいに見えたやろ?(笑)
うつみ:私は普通の大学生やったし、京都の人間で大阪まで来れんと思ってたし、手伝い程度ならって言いながら入りました。手伝いじゃ済まなかったですけどね(笑)。たぶんバンドのコンセプトみたいなのは決まってて、ヴォーカルだけが決まってない状態だったところに私と会った。で、ケイトに「ようこちゃんはこんなの着たらいい」って、白いロン毛のカツラとシルクハットと丸めがね持ってきて。いつも派手な服持ってきて。だから使用前使用後の差が激しくて、よくマネージャーさんですか?って言われましたね(笑)。
中川:最初の頃は京都の磔磔。
うつみ:そう。磔磔でやってた。対バンもいろいろで。その中には後のマルコシアス・バンプもいて。秋間さんによく「その服どこで買ったんですか?」って聞かれたな(笑)。
中川:俺、キャンディ・ホールでレッド・ウォーリアーズとの対バン観に行ったことあるよ。
うつみ:あぁ、やりましたね。その頃やってたカヴァーはシルバー・ヘッド、Tレックスで。女子でそういう曲をやってるのが珍しいからか食いついてくる人もいましたね。
中川:食いついてくるおっさんおったもんな(笑)。
うつみ:まぁ、なんだかわからなかったとこで食いついてきてたのかな。私もなんだかわからなかったし(笑)。私は帰国子女で、まだ頭の回転が日本語になってなかったから、なんでもかんでも英語で考えて英語で喋ってたから。
中川:で、メスカリンは85年の年末にデモテープを録って。ニューエスト・モデルも86年2月に「オモチャの兵隊」や「爆弾じかけ」をデモテープで録って、3月に最初のライヴをやる。できたばかりのエッグプラントで。対バンはメスカリン・ドライヴ。俺らはモッズ・ミュージック経由のパンクっていう感じで、メスカリンとは音は全然違うんやけど、でもやっぱりメスカリンしかいない、メスカリンとやりたい、というのがあった。ニューエストの最初のライヴの対バンはメスカリン。
うつみ:まだ奥野くんはいないよね。
中川:まだいない。リッケンバッカー330を持って、ザ・ジャムみたいにトリオでやってた。それでヒデ坊は、メスカリンがやってた磔磔とかのブルース・シーンばっかりでは世界が広がらないからエッグプラントを紹介してや、で、俺らは俺らでメスカリンがやってるようなライヴハウスを紹介してもらったり。
――メスカリンもニューエストも一つのシーンだけにいたくない、いろんなとこでやりたいと。
うつみ:そうだ、私のメスカリンでの初ライヴが、ギャルバン大会みたいなイベントで。周りはヘヴィメタル、ハードロックの綺麗な人ばっかりで、お化けみたいなヴォーカルのメスカリンが出て、浮いてましたね。最初っから浮いてた。それでもやっぱりおっさんが寄ってきたり。おっさんって言っても今の私より年下でしょうけど。
中川:当たり前や。おっさんって言っても30ぐらいや(笑)。
――メスカリンの存在を、みんなどう評価していいかわからなかったんだろうな。演奏も迫力があって、媚びずに、楽しそうで、カヴァーはマニアックで。そしてようこちゃんの声と完璧な英語のヴォーカル。
中川:独特なバランスやった。
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どんな状況でも歌ってやるってやってた

 
――ようこちゃんはメスカリン以前はバンドは?
うつみ:やってました。高校の時から。実は私、ドラマー志望だったんですよ。でもジャンケンに負けてヴォーカルになった。
――負けてよかった〜。
うつみ:大学のサークルでもそのままヴォーカルで。もともとヴォーカル気質じゃなくて、あまり目立ちたがりじゃないし。ただ声が変わってた、歌えちゃったんですよね。ジョーン・ジェットとか普通に歌えちゃった。
中川:ようこちゃんは13歳ぐらいまでアメリカで育ってるから、日常的にロックを歌謡曲みたいに聴いてた。
――あ、前に、ラモーンズの映画「エンド・オブ・ザ・センチュリー」の話して、あの近所に住んでたって言ってたもんね。
うつみ:そうそう。ニューヨークでラモーンズが隣町だったんですよ。映画で「僕たち、ここで育った」って言ってて、この道まっすぐ行ったら私のうちやって。
中川:ヒデ坊はヒデ坊で中学の頃から自分でミニコミ作るような子でね。ピンクフロイドやパティ・スミスについて書いてたらしい。2人のこの資質が大きいよね。グラムロックが好きやからグラムロックだけをやるっていうような感じでは全然なかった。狭いジャンルの話ではなく、自分達の力量の中でどんなことでもやりたい。若いっていうのは吸収力が止まらないしね。洋楽からの影響だけではないし。当時はどんどんバンドも出てきたから、現場でどんどん影響受け合ったり。音楽的なことだけじゃなく内面的なことも。ヒデ坊は日本語でも曲を書いていきたいって言いはじめて。後に日本語で歌詞を作るようになっていく。
――言いたいこといっぱいあったでしょうしね。「ノー・ノー・ガール!」も「アイ・ドント・ライク」もメッセージが集約されてる。怒りがある。
中川:今思えば、ライオット・ガールズ的な。
――そうそう。「女でもやる」じゃなく、「女だからやる」っていうか。媚びずに自由でね。あとようこちゃんの基本にあるのはYESじゃなくNOだしね。
うつみ:うん。基本NOです。最初はとにかく、当時いたギャルバンとは真逆なことしたいっていう。私達ならできるやろっていう。だから誰よりも派手な服着て。いろんなことをやりたいんやけど、それはイコール、「コレじゃなきゃイヤや」ってことで。しかもできないのにコレじゃなきゃイヤや(笑)。できないけどやる。「何か?」って(笑)。
――「なんか文句ある?」ってね(笑)。カッコイイ。
うつみ:どんどん歌ってやるっていうね。何が来ても、どんな状況でも歌ってやるってやってた。それは今になっても変わらないとこかもしれない。
――やっぱり本作、本当に今こそ聴いてもらいたい。30周年ってことだけじゃなく、今だからこそっていう気持ちは中川さんにもあった?
中川:メスカリン・ドライヴは、何かと相対化して自分達のありようを決めるのではなく、もうハナからやりたいことを徹底してやるっていうバンドやった。やっていく中で支持者、ファン、いろんな人間と出会う、世界が広がっていく、そういう真のDIYがあったっていうこと。それを作品として今の時代にちゃんと伝えたいっていう気持ちはあったね。誰かと比べてとか周りの状況から自分がやりたいことを決めるのではなく、ハナから自分達がやりたいことを徹底してやる。若いバンドの見本がここにあるということやね。
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