メスカリン・ドライヴ、結成30周年の今年、メジャー・デビュー以前の未発表の音源を網羅したアルバム『アーリー・メスカリン・ドライヴ 1985-1989』がリリースされた。ニューエスト・モデルと共にソウル・フラワー・ユニオンの前身バンドであるメスカリン・ドライヴ。その存在は刺激的だった。まだまだ(今もか?)男性中心だったライヴハウスのシーンに、女性だって、いや女性こそNO!と言ってもいいと教えてくれた。NO!と言うこと、それは自由を手にすること。メスカリン・ドライヴの音を浴びるとどんどん視界が開かれていくような感覚になっていったし、実際にメスカリン・ドライヴは道を開いていった。うつみようこの声、シャウト、伊丹英子のギターの鮮やかな轟き。一瞬でノックアウトされた。
本作は、メスカリン・ドライヴと同時期に活動していたニューエスト・モデルのリーダーであり現在はソウル・フラワー・ユニオンの中川敬と、メスカリン・ドライヴの1stアルバム『ディープ・モーニング・グロウ』(1988年)とメスカリン・ドライヴが参加したV.A.『ウエスト・サイケデリア』(1988年)をリリースしたアルケミ・レコードのJOJO広重の再会により実現。結成直後の1stカセットテープ「ライアー・ライアー」、ライヴ収録のパティ・スミスの「ロックンロール・ニガー」など秘蔵音源も収録(というか全てが秘蔵音源か)。
うつみようこと中川敬に、ギラギラとしたあの時代を訊く。(INTERVIEW:遠藤妙子)
――先日のソウル・フラワー・ユニオンのライヴ、とても良かった。ようこちゃん、今、どんどん声が出てますよね。
うつみようこ:面白かったのが、「ソウル・フラワー・クリーク」を前回のツアーからやるようになって….、
中川敬:英詞のラップが入ってる、ニューエスト・モデル後期のファンク・チューン。ようこちゃんのラップがなければ成り立たない曲やから、ソウル・フラワー・ユニオンがあの曲をやるのは20年ぶりぐらい。
うつみ:あの曲をやると昔は息が上がってたんですよ。それが今は上がらなくなって。それが自分でも面白かったですね。体も勝手に動くし。20年ぶりにやったわりには覚えてたな(笑)。
中川:長いこと続けてると、無自覚ではあっても、カラダが会得していくっていうこともあるんよね。
うつみ:30年近く声出してるしね。
――ライヴでやったメスカリン・ドライヴの曲、今作にも収録されてる「アイ・ドント・ライク」や「ノー・ノー・ガール!」なんか本当にカッコイイし今こそ必要な曲だなって思った。で、今回の『アーリー・メスカリン・ドライヴ 1985-1989 』のリリースは、中川さんが主導で?
中川:メスカリン・ドライヴが最初に作ったデモテープのマスターを俺が持ってたんよね。折に触れてたまに聴いたりしてて、コレは責任もってリリースせなあかんなって、ずっと気になってた。で、一年半前にJOJO(広重)とソウルフラワーBiS階段で久しぶりに一緒に仕事をして。JOJOのアルケミー・レコードからメスカリンは当時一枚出してるから、JOJOに冗談半分本気半分で「メスカリン、出そうや」って言ったら、「僕にできることならなんでもやらせてよ」って言ってくれて。そこからやり取りが始まった。
――広重さんやアルケミーとメスカリンは、80年代半ば、どんな感じに繋がってたの?
中川:86年頃、メスカリンはパンク・バンドとの対バンが多かったんやけど、もっと広がりを出そうっていうことでアルケミー系のバンドやトランス系のバンドとも一緒にやり始めた。たぶん、そのへんでJOJOはメスカリンを観たんじゃないかな。
うつみ:アウシュビッツとよくやってたからな。
中川:あぁ、アウシュビッツの林直人経由かもしれないね。
うつみ:アルケミーから出してた赤痢とも対バンするようになってたし、広重さんもよく観に来てくれてた。それでアルケミーから出た『ウエスト・サイケデリア』っていうオムニバスに呼ばれて。
中川:で、1stアルバム『ディープ・モーニング・グロウ』のリリース。どっちも1988年やね。『ディープ・モーニング・グロウ』は2002年にキングから再発出来たけど、今回は、CD化されていないスタジオ録音曲を全部収めようと。ライヴ音源も入れたくていろいろ探したり。そしたらメスカリンとニューエストとニューロティカが豊島公会堂でやったライヴのVHSを見つけて。メジャー・デビューのちょっと前。その中に「ロックンロール・ニガー」があった。コレは入れなあかん! 俺の金星や(笑)。
うつみ:今作に関して私はただ見てただけ、お好きにどうぞって感じ(笑)。でも最初のカセットのデモテープも入れるって聞いて、「え?アレ出すの」って。自分でも忘れてたようなものだし。改めて聴いて、ちょっとガックリしましたけどね。
中川:未熟やと思った?
うつみ:未熟というか、なんも変わってないなって。
中川:これぞロックンロール!っていう音像やで。
――変わってないというか、芯が凄くある。では改めて、メスカリンと中川さんが最初に出会ったのは?
中川:1984から86年ぐらいの頃、俺は大阪のミナミのロック喫茶でバイトしてて。高校一年の頃からの溜まり場で、溜まり場がそのまま職場になったという。ある日その店に派手派手な女が入ってきた。もう派手過ぎて3人やのに10人ぐらいに見える(笑)。髪の毛は赤いわ、ニューヨーク・ドールズのTシャツ着てるわ。ニューヨーク・ドールズのTシャツとかが一般化するようになったのは、グラム・リバイバルの80年代後半やから、当時はマニアックで。その派手な女の子たちは、よく見たらジョニー・サンダース来日のライヴや、ストリート・スライダーズのライヴにいたりした子たち。そこでロック喫茶の店員の軽いお兄ちゃんは「こっち来ぃや」って常連客専用のカウンターに呼ぶ。その軽い男はニューエスト・モデルっていうバンドを作ったばかりの男で(笑)。その時はようこちゃんはいなくて、ヒデ坊と初代ベーシストのケイトと、もう一人のギターのリリーやったかな。以降常連客になって友だちになっていく。ある日、「デモテープ録ったから聴いてや」ってカセットテープを渡されて。そこにはオリジナル2曲とシルバー・ヘッドの「ハロー・ニューヨーク」が入ってるわけや。俺もそういうの好きやった頃やから、この曲が出てくるかー!って。
――20歳そこそこでシルバー・ヘッド!
中川:で、何よりサウンド。ようこちゃんの声。なんやねんコレは! 演奏は粗野なんやけど、なんか完成してるわけ。音塊の中に、やりたいことを既に実現してるっていう風格がすでにある。俺もニューエスト・モデルでデモテープをそろそろ録ろうとか思ってる時期で、これはヤバイ!って
――私も初めてメスカリン・ドライヴを聴いた時、ヒデちゃんのギターのジャーンって音、ようこちゃんの声、聴いた瞬間にOK!って思いましたよ。
中川:ヒデ坊はギター弾き始めて一年経ったか経ってないかぐらいの時期で、既にアンペッグのギターアンプ、レスポール・ジュニアを使ってて、自分はこの音を出したいんやっていうことが初めから明確にある感じやった。凛としたものがそこにはあった。
――あと私は女だから、よけいグッときたんだと思う。
中川:当時の女性バンドは、男中心の音楽業界の中で、男に媚びる型、あるいは逆に、男に反発する型に分かれてる感じやったけど、メスカリン・ドライヴはそのどちらでもない飄々とした佇まいがあった。
――ただ自分達がやりたいことをやってるっていう。
中川:女の方がおもろいしっていう。そういう感じがハナからあった。そんなバンドは他にあまりなかった。ようこちゃんの資質、ヒデ坊の資質、ケイトの資質…。ケイトはバンドのコンセプト的なとこを握ってた。ファッションとか方向性。各々の資質は結構バラバラで、それも良かった。
うつみ:リリーが技術的なものを持ってて。
中川:当時、関西はヘヴィメタル・ブームで。44マグナム、マリノ、ラウドネス。リリーはそのシーンにいた子で。だからリリーだけはテクニカルに弾けた。メスカリン・ドライヴはそういう独特なバランスで始まったバンドで。