2012年2月4日の宙也生誕50年&新宿LOFTデビュー30周年記念祝祭、同年11月11日のオリジナル・ベーシストであったU子の没後20年を追悼する高円寺HIGHでのライブで{新訳}として実に27年ぶりの復活を遂げた日本のアンダーグラウンド・シーンの始祖、アレルギー。『蘇生 〜Anabiosis』と題された待望の新作は、昨年、新メンバーを迎え入れて再誕した彼らが不朽のレパートリーの数々を文字通り現代に蘇らせた逸品である。伝説の烙印、幻想や懐古を軽く一蹴したその真に迫るアンサンブルを聴けば、宙也がアレルギー解禁に踏み切った理由がよく分かるだろう。そして、30年の時空を超えたアレルギーの蘇生が時代に呼ばれた必然の帰結であったことも。
ノスタルジーとは一切無縁の"アートコアパンク"、その30年越しのカウンターアタックはいま始まったばかりだ。(interview:椎名宗之)
*Main Photo by Kouichi Ohshima/U-co Photo by Shinobu Kayaba
故人が生きていた証は生きている人間にしか残せない
──アレルギーが再生したのは、2年前に新宿ロフトで行なわれた宙也さんの生誕50周年・ロフトデビュー30周年記念ライブでした。そこで{新訳}アレルギーとして27年ぶりにアレルギーを復活させたわけですが、葛藤みたいなものはありませんでしたか。
宙也:なかったと言えば嘘になりますね。アレルギーが解散したのが1985年で、その7年後にU子が亡くなったという報せを受けたんです。その時に、もう二度とアレルギーの復活はないと思ったんですよ。あの4人にしかできない音だったと自負していたし、U子がいないのにまたアレルギーをやるべきじゃないと自分でも頑なに考えていたので。まぁ、解散してからU子とは交流がなかったから、本人の意思を確認したわけじゃないんですけどね。それから20年近く経って、僕が50歳になるのを前に、自分の両親が続けて亡くなったんです。肉親を失って初めて、亡くなった人が生きていた証を残すのはいま生きている人間にしかできないことだと悟ったんですよ。せめて葬式では、親父の意思やお袋の生き方みたいなことを伝えておきたいという気持ちが初めて沸き起こって。
──宙也さんがまもなく50歳を迎えるタイミングは、U子さんの没後20年も間近だったということですよね。
宙也:そう、それもあったんですよ。50歳になる数年前から、アレルギーのマネージャーだった相原(弓)さんという女性と、勝井(祐二)君から「また是非アレルギーをやって欲しい」と同じタイミングで言われたんです。U子が亡くなって20年近く経つということもあって。僕はROVOが好きでしょっちゅう見に行っていたので勝井君ともよく話すようになっていたんだけど、偶然にも勝井君はU子の親友だったんです。同じ札幌出身で、上京したのはU子が先だったんだけど。アレルギーが解散した後に勝井君も上京してきて、よくU子と呑み歩いていたらしいんですよ。相原さんもプライベートでU子と仲が良くて。
──U子さんと深い交流があった相原さんと勝井さんからの後押しもあって、アレルギー解禁に踏み切ったということですか。
宙也:僕自身、またやるべきなのか? またやっていいものなのか? と考えていたんですけど、その2人に後押しされたのは確かですね。勝井君も「絶対にやるべきですよ」と言ってくれたし、相原さんにも「U子がやっていたことをみんなに伝えるためにも是非やって欲しい」と言われたんです。確かにそれはそうだなと。さっきも話した通り、その人の生きていた証を残せるのはいま生きている人にしかできないことだから。U子はアレルギーをやって欲しくないだろうなと僕は長いあいだ勝手に思っていたんだけど、相原さんと勝井君の言葉で踏ん切りがついたんです。
──U子さんがアレルギーの復活を望んでいなかったというのは、何か思い当たる節があるんですか。
宙也:アレルギーはあの4人のものという考えがまずあったし、解散の原因はいろいろなことがあったんだけど、U子は最後まで解散に反対していたんです。活動の末期にはバンドの方向性も当初と変わってきたし、オノちゃん(小野昌之)はザ・スターリン、アーちゃん(荒木康弘)はP-MODELの活動が始まりつつあったし、テクニックの面でも限界を感じていたこともあって、僕が苦渋の決断で解散の話を持ちかけたんですけど。でも、そこで僕が踏ん張って、アレルギーを続けることができたならば、もしかしたらU子が自殺することもなかったんじゃないかと思うことがあるんです。その負い目がずっとあるんですよ。
──実際、{新訳}アレルギーとしてライブをやってみて如何でしたか。
宙也:27年ぶりに復活して、ライブも何本かやってみたけど、未だに客観視できませんね。ライブになるとのめり込んでしまうので。アレルギーの音楽がいまの時代にどれだけ通用するのか? とか、若い人たちがどう思うのか? とかまで考える余裕がない。とにかく必死ですから。最初にロフトで{新訳}アレルギーをやった時は、De+LAXとLOOPUS、宙也†幸也のライブもあったから余計に。
──とは言え、2013年から現編成でアレルギーの再生を果たしたのは、{新訳}アレルギーとして2回のライブで得た手応えがあったからこそじゃないですか?
宙也:そうですね。U子が生きていた証を提示したかったことに加えて、いまの音の響きでアレルギーという存在を伝えられる方法があるんじゃないかと{新訳}アレルギーをやってみて実感したんです。まぁ、諸事情あってTOKIEちゃんと勝井君は抜けることになったんですけど。僕の背中を押してくれた勝井君は「自分のミッションは終わりました」と言っていました(笑)。
30年の時空を超えて“蘇生”された楽曲の数々
──新たに内藤幸也さんをギタリストに迎えたのは、宙也†幸也からの流れですか。
宙也:うん。知り合ったのはここ5、6年の話なんですけどね。
──意外ですね。てっきりMUTE BEATの頃から知り合いだったのかと思いましたが。
宙也:当時は面識がなかったですね。でも新しくアレルギーを始めるにあたって、幸也の存在は大きいんですよ。オノちゃんはもう連絡が取れなくて、もしまたアレルギーをやるなら幸也しかいないと最初から考えていましたから。
──TOKIEさんに継ぐベーシスト、中西智子さんとはどんなつながりだったんですか。
宙也:女性のベーシストを紹介してくれないかといろんな人に尋ねて回って、何人か紹介してもらったんですよ。みんなYouTubeのURLを送ってくれたんですけど(笑)。そのなかで一番最初に動画を見たのが智子で、直感で選びました。彼女はアレルギーのことを全く知らなかったんだけど、それも大きなプレッシャーにならなくて逆にいいかなと思って。
──華も腕もあるという意味では、アレルギーのベーシストの系譜に相応しい存在ですよね。
宙也:確かに。嬉しかったのは、当時のU子を知っている人たちが智子が入ってからのアレルギーを認めてくれたことなんです。違うメンバーで再結成したバンドは、そういう部分でなかなか認めてもらえないじゃないですか。長いブランクがあったバンドだからこそ、そうやって認めてもらえるのは純粋に嬉しいし、新たなメンバーが加わったことで僕自身フレッシュな気持ちでやれているんですよ。
──今回のアレルギーは期間限定の活動ではなく、この先もずっと続いていくものだと捉えていいんですよね?
宙也:もちろんそのつもりでいます。そう思えたのはやっぱり、今の布陣が揃ったことが大きいですね。{新訳}の時はそこまで思えなかったですから。
──鉄壁の布陣が揃った以上、音源を作りたくなるのはごく自然な流れですよね。今回発表される『蘇生 〜Anabiosis』と題されたニュー・アルバムなんですが、冒頭に新曲が2曲連なりつつも、基本的には不朽のレパートリーが30年の歳月を経て文字通り“蘇生”された構成になっていますね。
宙也:まずは新メンバーで昔の曲をちゃんとした形で録ってみたかったんです。当時は整ったレコーディング・システムで録ることができなかったし、作品として聴けるのもライブ音源が多かったし、ちゃんとマルチで録れたのは『El Dorado(黄金郷)』の片面(Studio Act Side)だけでしたからね。『REBEL STREET』に収録されていた「WAKE UP」なんて8チャンネルだったし。新曲だけでまとめた作品は、この次に出したいなと考えています。
──波間に小舟がたゆたうようなアレンジの「不知火」、漆黒の闇夜に祈りを託した「Eos 〜暁の女神」という新曲は過去のレパートリーと引けを取らない出色の出来だし、過去のレパートリーはいま聴いても新鮮で普遍性があるし、往年のリスナーも昔のアレルギーを知らない世代も満足できる内容ですね。
宙也:そう聴いていただければ嬉しいですね。そんな作品になるのを望んでいたので。マスタリングの当日まで曲順を決めてなかったんですが、新曲は頭に入れるのがいいかなと思ったんですよ。コメントを寄せてくれた上田剛士(AA=)は、「どこからどこまでが新曲なんですか?」って訊いてきたけど(笑)。
──INUの「メシ喰うな!」をボーナストラックとして収録したのはどんな理由からですか。
宙也:同世代のバンドのカバーを入れてみたかったという単純な理由です。町田康とは同い年なんですよ。『メシ喰うな!』ってアルバムはジャケットも含めてインパクトが凄かったし、しかもメジャーから出たじゃないですか。当時自分と同じ19歳だと聞いて、ちょっとしたジェラシーを感じていましたね。ちなみに、カバーは2曲ピックアップしていたんですよ。
──もう1曲は、ライブでも披露しているザ・スターリンの「解剖室」ですか。
宙也:そうです。「解剖室」は何回かアレンジしてみたんだけど、原曲を超えられなかったんですよね。
──過去のレパートリーの選曲基準はどんなところだったんでしょう?
宙也:今のメンバーでライブでやりたい曲、今のメンバーでやってしっくりくる曲ですね。去年ライブを重ねた上でレコーディングに入ったから、選曲で特に悩むことはなかったです。アレンジもほとんどいじらなかったし。バンドのデビュー・アルバムの曲って、デビューするまでにライブでガンガンやるじゃないですか。それと同じですよ。
──だからロック・バンドのファースト・アルバムには名作が多いんですよね。ライブで研鑽を積んでいるから。
宙也:そうそう。セカンドはファーストの勢いで作って、サードで名作が出来るかどうかで真価が問われるんですよね。