Rooftop ルーフトップ

INTERVIEW

トップインタビュー大木晴子(「明日も晴れ」)(Rooftop2014年8月号)

憲法!崖っぷち! 私たちはおそれない
1969新宿西口地下広場から2014年へのメッセージ

2014.08.01

 1969年2月28日夕刻、新宿駅西口地下広場でとつぜん数人の若者がギターを弾き歌い出した。いつしか「フォークゲリラ」と呼ばれるようになったこの集まりは、若者達による毎週土曜日の集会となり、数ヶ月後には見物人も合わせ数千人の群衆が集まる広場へとなっていった。しかし、戦争反対を掲げるフォークゲリラは警察から激しく弾圧され、ギターを持った者はそれだけで逮捕され、やがて広場は封鎖された。
 政治の季節でもあり、音楽が社会を大きく変えていた1969年という激動の時代に新宿西口にたった数ヶ月出現した解放区の記録を、当時この場で歌っていた大木晴子が著書『1969新宿西口地下広場』として今の時代に甦らせた。集団的自衛権の行使を容認し戦争をする国へ進もうとする今の日本社会にとって、この書が投げかけるメッセージは非常に大きなものだ。8月16日に本書の出版記念イベントを行う大木晴子にお話を伺った。(聞き手:平野 悠)

みんなが同じように考えられて、意思表示できる場所を作り出した

——まず音楽の話から聞いていきたいなと思います。1969年という激動の時代にフォークゲリラは生まれたわけですが、あの時、新宿西口地下広場で最初に歌い出したのは関西の人だったんですね。

大木:大阪の梅田地下街でフォーク集会みたいなものを開いている人達がいるというのは聞いていたんです。その人達が1968年の12月28日、新宿の「花束デモ」にギターを抱えてやって来て、 東京でも弾ける者は一緒に弾こうっていう話になった。それで何人かが一緒にデモで弾きながら歩いたんです。たまたま私は歌が好きだったし、その時何となく一緒に歌ったっていうのが始まりでしたね。

——その頃はベトナム戦争が激化していて、69年の夏にはアメリカでウッドストックがあって、世界的にも大きなムーブメントが起きていて、そういう流れに影響されて日本でも反戦フォークを歌い出す人が出てきたと思うのですが、あなたはその時ギターも弾けなかったんでしょ?

大木:そうです。私にとってフォークソングっていうのは急に現れたんですよ。

——そしてギターを習い出した。

大木:はい。大阪に行った時に私はどうしてもギターを欲しいと思ったんです。それで当時で1万2千円位のシンプルなギターに出会って、そのギターにベ平連の「殺すな」っていうマークをつけたりして、それで帰りの汽車の中でコードを教えてもらって、やっと「友よ」が弾けるようになったんです。弾けるのは一曲だけでしたけど(笑)。そのギターは、その後私の手を離れ、次々と色んな人が地下広場で弾いたギターなんですね。

——当時、僕はブント(共産主義者同盟)にいて、盛んに歌っていたのは「インターナショナル」などの革命のために血を流すことを肯定するような曲だったんですけれど、ベ平連の人達はそういう革命歌ではなくフォークソングを歌い、それを聞きに来た人達と一緒に討論しようという流れになっていたんですよね。歌われる曲も「バラが咲いた」みたいなおぼっちゃまフォークと言われるようなものではなくて、岡林信康の「友よ」だったり高石友也の「機動隊ブルース」だったり、いわゆる関西フォーク系の歌を好んでいました。

大木:確かに「バラが咲いた」は歌いませんでしたね。その歌を拒否していた訳じゃないですけど、みんなで一緒に歌う時には自然とその曲は出てきませんでした。時代背景でしょうね。

——なるほど。そもそもベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)っていうのは何だったのかという所から説明しないと、これを読む若い読者はわからないか。少し説明してもらえますか(笑)。

大木:本にも詳しく書きましたが、ベ平連っていうのは当時、共産党を含め色々な運動体があった中で、とても庶民の身近な所にあったグループなんです。鶴見俊輔さんも仰っていたけど、八百屋のおっちゃんも花屋のおばちゃんも、みんなが同じように考えられて、意思表示できる場所を作り出したのがベ平連だと思うんです。だから、ベ平連の人達ってはっきりものを言える人達が多かった気がします。大人が語って若者に伝えて、若者が語って大人から引き出すっていう事ができていて、みんなたくさん語り合っていました。そして若者を大事に育てていたと思います。小田実さんとか吉川勇一さんとか、立教大学の先生の高畠さんだったり、いい大人の背中を一杯見せてもらいました。

 

自分の言葉を掲げることで一人一人が強くなる

——1969年は全世界的に政治の季節と言われるような熱い時代でした。そんな中、僕ら新左翼の連中は、台頭してくる圧倒的な権力に対抗して機動隊の壁をぶち壊さなきゃ話にならないっていうことになって、ゲバ棒を持ち、最終的には爆弾を作るところまでいってしまった。それに対して、ベ平連はとても庶民的でラブ&ピースでしたよね。ヘルメットとゲバ棒ではなく、花束と音楽という感じで。

大木:だから沿道の人達には大変受けが良かったんですよ。まず見る目がすごくソフトになりますから。それは凄く大事なことです。あと意思表示のスタンディングと同じで、デモも沿道の人達と向き合う訳だけれど、自分たちの中にその気持が本当にないと入ってこないんですよね。 切実な思いだから伝わるんです。先日(7月5日)、新宿で「怒りのドラムデモ」があったでしょ。その時、私は沿道の人にも参加して欲しくて「一緒に歩きませんか!」と、たくさん声をかけたんです。最終的に6人が飛び入りしたんですが、それを見ていた周りの人達がすごいって感動してるんです。でも、当時はみんなそんな気持ちだったから、いつもデモが出発した時の数よりもゴール付近では何十倍にもなるんです。

——今はイスラエルのガザ攻撃の問題一つとってみても解決の糸口は見えず、状況は45年前とほとんど変わらず、少しも平和になっていないと感じられる時さえあるんですが大木さんは今の状況に虚しくはならないんですか?

大木:繰り返し繰り返し同じ事をして、その中で少しだけ希望につながる光が感じられたらいいんです。澤地久枝さんがイラク戦争が起きた時に書いていた言葉を思い出します。澤地さんもお身体が弱かったり、色々大変な事があったりするんですけど、自分を追い込んで追い込んでその先に希望の光を見い出すと書いていました。それを読んで私もそうだって思ったんです。平和を育むってそういう事かなって。先人達が諦めないで頑張っている後ろ姿を感じながら少しずつ築き上げていく。たとえ戦争をする時代になっても決して消えないものというのはあるんじゃないでしょうか。

——今、金曜官邸前の脱原発抗議はもう2年以上続いていますよね。なんであんなに続いていると思います?

大木:あれだけ続いているのは、一人一人が毎週来て自分の意思表示をしていく事によって少しずつ強くなっているからではないでしょうか。それはいま私がやっている新宿西口でのスタンディングと同じで、決まった時間に来るっていう行為とプラカードを書くっていう行為とそれを掲げるっていう行為が大事なんです。私はよく言うんですけど、意思表示って人に見せているようだけど、人前で言葉を掲げるっていうのは自分を見つめる行為でもあるんです。そうするとその言葉に嘘をつけなくなる。自分に嘘をつけなくなるから強くなるんです。人に見せているようだけど、自分と向き合って日々強くなっているんだと思います。だからあの中の数%の人達はあの抗議が無くなっても何らしかの行動でまた繋がるんだと思う。それは一人一人の勝利でもありますよね。

——ベ平連の画期的な所はあくまで非暴力に徹しながらも、時には非合法な事も辞さないところですよね。例えば脱走米兵を匿ったりしていたけれども、あれなんて完全に非合法でした。

大木:不条理な事にはNOという気骨がベ平連にはありましたよね。

——大木さんも逮捕されましたよね。

大木:そうです。検察庁に呼ばれて行くと検事さんがとても親切でした。まず最初に家族構成とかちょっと事情を聞かれるんです。そして父が病気だという話をしたら、その後、検事さんが私の目の前で母に電話するんですよ。それで母にお父さんの具合いかがですかって聞いてくれてた。すごく自然な会話で。それでその後、私に「帰ろうか」って言ってくれたんです(笑)。あの時はまだ人に情がありましたね。でも、今はもう変わってしまいました。今の若い人達が捕まった時の話を聞くと、ひどい扱いを受けていて本当に辛い気持ちになるんです。だから今の若い人たちはなるべく捕まらない方法をとらなきゃいけないって思います。私の場合は逮捕を公にして闘えたんだけれども、今それは無理だと思うんです。

——1969年頃はまだ日本人が大きな塊で、同じ日本人同士が争ってもしょうがないという空気がありましたよね。今は捕まったら就職もできなくなりますから。僕は今の時代はこれまでで最低だと思っているんです。大木さんはどう思っていますか?

大木:最悪ですね。ちょっと変化が速すぎて怖いです。これは今までにない速さで、狂気の沙汰っていう言葉がピッタリですよね。私達の時代が幸せだったのは背を見せてくれる素敵な人達が一杯いた事ですが、今はあまりいないですよね。私はそれを心配しているんです。だから私は生き抜くために個が強くなって欲しいってずっと言い続けています。自分でできることを自分流になんでもいいから始めて欲しいんです。

 

平和に繋がる事に向かっているという希望

——8月16日はネイキッドロフトで本の出版記念イベントも開催されますが、大木さんは今後どうしていきますか?

大木:この本は新宿書房の人達と手間をかけて一生懸命つくりました。DVD付きで3200円でしょ。出版社の人から最初、本の値段を3200円から4800円まで提示してもらっていたんだけど、私は若い子が買えるように3200円にして下さいって言ったんです。出版社の人も大変だったと思います。だから若い人に是非読んでもらいたいんです。あとイベントでは出来れば当時、機動隊だった人が来てくれたらいいなと思っています。私達と同じ年代の人が機動隊にいた訳でしょ。その人達がどういう気持ちで地下広場を観ていたのか聞いてみたいなと思うし、今だから話せるっていう事もあるだろうし、なんか色々な角度からとにかく話を始めたら楽しいんだぞっていう事を伝えたいです。運動は楽しくないと。ベ平連は楽しかったんですよ。若者たちがあんなに集ったのはやっぱりそこに集う人達に魅力があって、平和に繋がる事に向かっているという希望だったんです。

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▲大木晴子さんは今も毎週土曜日の夕刻に新宿西口で反戦意思表示のスタンディングを続けている。

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1969新宿西口地下広場

大木晴子・鈴木一誌 編
A5判/並製/208頁/DVD映画『地下広場』付
本体3,200円+税別
新宿書房 刊
ISBN978-4-88008-438-1 C0036

amazonで購入

1969年2月、数人の若者が新宿西口地下広場でギターを鳴らして反戦歌を歌いだした。彼らは3月の毎週土曜日からここに集まり歌をうたい、自らを「フォークゲリラ」と名乗った。一時は5000人を超える人びとを集めたこの集会は機動隊の出動で、7月26日の土曜日を最後に集会不可能となる。
本書はこの間の記録を丹念に追った映画『地下広場』(大内田圭弥監督/1970年/白黒/84分)から、1969年という時代の社会世相を読み解く。
論考・エッセイ(上野昻志、なぎら健壱、筒井武文など)、インタビュー、映画シナリオ採録、大内田圭弥監督フィルモグラフィー、関連年表収録。

LIVE INFOライブ情報

憲法!崖っぷち!─partⅡ 私たちはおそれない 1969〜2014「1969 新宿西口地下広場 発刊記念」
【日時】2014年8月16日(土)OPEN 12:30/START 13:00
【会場】ネイキッドロフト(東京都新宿区百人町)
【料金】予約 1,500円/学割 1,000円/当日 1,700円(いずれも飲食別)※予約は店頭電話 & webにて 03-3205-1556(16:30〜24:00)
【出演】
大木晴子(明日も晴れ)
三上智恵(ジャーナリスト/元琉球朝日放送/映画「標的の村」監督)
志村建世(元NHKディレクター)
吉川勇一(元ベ平連事務局長)(交渉中)、ほか
【協力】新宿西口反戦意思表示有志
【問い合わせ】ネイキッドロフト 03-3205-1556

安倍暴走政権が国民を蔑ろにする政策を次から次へと勝手に決めていき、憲法9条を骨抜きにし、この国には憲法が無くなってしまいそうな状況を私たちは黙って見ているわけにはいかない…。
1969年の地下広場を埋めた歌声と討論の熱気は、危機に立たされた国民の本能の叫びではなかったか。
あのエネルギーは、45年の時を経て私たちの心を揺さぶる。
そして今、再開した記憶の上に、私たちの広場は復活する。
『1969新宿西口地下広場』の発刊を記念し、大木晴子さんとゲストの方々とのトークライブを行ないます。

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