ソウル・フラワー・ユニオン(以下:SFU)で活躍する中川敬が、自身初となるアコースティック・ソロ・アルバム『街道筋の着地しないブルース』をリリースした。東北地方太平洋沖地震後、僕は石巻でボランティア活動をしていたが、被災地の方に音楽を聴いてもらいたいと思った時に真っ先にSFUのことが頭に浮かんだ。そして、中川さんに被災地で歌ってもらったあの光景は忘れる事はないだろう。老若男女関係なく、初めて見るだろう彼らのライブに笑顔で踊る人、感情が全て溢れ出る人、それぞれであったが、やはり音楽が大事なんだと改めて感じた。今作には、被災地に行ってから書いた<日高見(ひたかみ)>というインストの曲がある。中川さんが現地で感じた事、言葉にならない思いを感じられる曲だ。
まだまだ被災地は予断を許さない状況が続いている。しかし、音を鳴らす事で誰かが笑顔になり、明日に繋がる希望を持つことができる。僕は中川さんの曲を聴いて、何度も自分を奮い立たせることができた。そうやって、1人でも多くの人の心にこの作品が届いてくれたらと切に願っている。(聞き手:上野祥法/構成:やまだともこ)
聴かせる対象はホモサピエンス全員
── 6月22日に『街道筋の着地しないブルース』をリリースされましたけど、ソロは初なんですね。
中川:1998年にソウルシャリスト・エスケイプというソロ・プロジェクトで『ロスト・ホームランド』を一枚出してるけど、「中川敬」名義として出すのはこれが初。数年前から構想はあったんやけどね。追い立てられるようにSFUのスケジュールがやってきて、物理的にも時間的にも制作する余裕が全くなかったんよ。だけど、昨年12月にリリースした『キャンプ・パンゲア』の制作、“Peace Music Festa!辺野古2010”(2010年10月30日・31日)が終わったら、11月は全くスケジュールが空いてるなっていうのが昨年の夏ぐらいの段階で見えてて。辺野古から帰ったらアコースティックで何でもいいから録り始めようって。
── それからTwitter上でも深夜に曲を作っているというツイートが出てましたもんね。作るのは自宅ですか?
中川:自宅マンションの傍に部屋を借りてて、普段デモテープ作ったりとか歌入れとか三線のダビングとかやってるプライベート・スタジオ。通称「魂花神社」。どこの神社ですか?って良く聴かれるけど(笑)。
── そこに日々通って。
中川:雪の日も雨の日も、毎日毎日通ってね。通勤時間は1分ぐらい(笑)。
── 自宅ではなく場所を変えることによって、イメージが沸きやすいというのはありますか?
中川:自宅は機材置けるような雰囲気じゃないからね。同居四歳男性の降臨以降、レゴとかプラレールとかが家中散乱してる(笑)。
── タイトルの『街道筋の着地しないブルース』は、どうやって決めたんですか?
中川:11月に作業を始めた段階で、既に脳裡にあった言葉。せっかくのアコースティック・ソロ・アルバムなんやから、みんながイメージするSFUとは違う側面の自分を出そうと、始めから思ってはいた。胸の内に沈殿しているものを丁寧に削ぎ落としながら出すというようなイメージ。そんな中、“着地しないブルース”というキーワードがまさに感覚的に出てきた。アルバム・タイトルが先にあって、楽曲の<街道筋の着地しないブルース>はのちに出来た。
── バンドでの曲作りと中川敬として作る時の、明確にここはいつもと違うみたいな部分ってあるんですか?
中川:「今さら」みたいな発見がいっぱいあったよ。新曲が出来てすぐに録る、とか、バンドではありえないし。25年以上常に共同作業で音楽作ってるやん? 今回、これでいいんかな?って聞く相手もいないわけよ。ずっとひとりでやってる人からしたら当たり前の話なんやろうけど。
── 客観的に聴いてくれる人がいないことに対して、不安はなかったですか?
中川:それが段々自分にとっての楽しみになっていってね。未だに今作に対して全然客観性がない。そうやってひとりで作ったものを人がどう感じるのか。それ自体を楽しもうとしてる。
── 反応がかなり楽しみですね。ソロでツアーだったりは考えてます?
中川:7月にアコパル(ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザン)で数カ所やるから、SFUの6月のツアーと7月のアコパルがこの作品のお披露目って感じやね。
── ソロ・アルバムを作るにあたり、聴かせる対象を想定したものってありますか?
中川:SFUの作品を作るときと一緒やけどね。対象はホモ・サピエンス(笑)。下は赤ん坊から上は皇寿(百十歳)まで(笑)。普段からロック・バンドにしては年齢層、文化層、幅広いから、聴く対象がどういう人たちなのかということは想定せずに作る。それが習慣になっているのかもしれない。
── 普段と同じような感じで。
中川:ただ、311の震災以降、それまでと同じように作りますというにはいかなくなった部分はあったな。心境的な部分。特に歌詞やね。例えば<風来恋歌>はアルタンがやってるアイリッシュ・トラッドで、311の前の段階でアルタン側にも打診してて、俺も自分なりの言葉で少し書きかけてはいたんやけど、4月に入って改めて歌詞を見直してみたら、書き換えざるを得なくなってて。当初アルバムに通底したテーマとして、 “街道を行くマレビト”というイメージがあって、この曲自体、旅人の恋唄。でも、原詞からは少し外れさせてもらった。どうしても、想定外の出来事によって離別せざるを得なくなったディアスポラのイメージを、被せざるを得なくなっていった…。
── 僕も個人的に中川さんとの関係も、あの地震と津波を抜きにしては語れないんです。<風来恋歌>を聴いて、石巻にある日和山という被災地を全部見渡せる山があるんですけど、僕はそこの景色が浮かんだんです。今回のアルバムの中に中川さんが被災地を見てから作られた曲って何曲ぐらいあるんですか?
中川:<日高見(ひたかみ)>がそう。初めて被災地に入ったのが4月末やったからね。5月上旬のミックスの前にあまり時間がなくて。でも、数曲、311以降に録った曲があって、常に心は東北に飛んでいた中で作ってた。
── インストの。3月に僕らがピースボートで石巻に行った3日後とかには中川さんとメールや電話でやりとりをさせてもらっていて、ずっとSFUには被災地に音楽を届けに来て欲しいと思っていたけど、タイミングとしてはまだ早いなと僕自身も思っていて。
中川:まず生きていくということ自体が大変な時期やったから、音楽を持って行きますっていうような感じではなかった。4月後半に入ってからかな? 少しづつ、被災地から、エンターテイメントの必要性の話が耳に入り始めたんよね。
── タイミングを図って、4月の後半に一度来てもらって。
中川:阪神大震災を機に立ち上げた「ソウルフラワー震災基金」で準備した支援物資を車に乗せて、4月25日〜26日に初めて被災地に入って、関西に帰る車中でずっとメロディーが頭の中で繰り返されて、それで、そのまま帰ってすぐに録ったのが<日高見>。
── <日高見>のメロディーを頭の中で考えていた時にはどんな景色が浮かんでいたんですか?
中川:それは一口では言えないよね。上野は俺が行った段階で被災地に1ヶ月ぐらい入っていたけど、俺は凝縮された3日間に石巻、女川、仙台、名取、亘理、白石、最後に福島駅近くのブルースバーで元ボ・ガンボスの岡地君から福島の現状訊いて…。帰りの車中は少し頭が混乱してたよ。そういう中で、ふと口から出たメロディー。
── 僕が何でSFUを好きなのかというところに繋がって行くんですけど、現場に立っている感が常にあって、それが今回のアルバムでもすごく感じたんですよ。
中川:現場に行ってなくても素晴らしい音楽はいっぱいあるし、現場に行ってるからと言ってそれが見事に音楽に投下されているかと言ったらそうではないものもいっぱいあるし、要は音楽それ自体なんやけど、ただ、現場に行くといろんな出会いがあるからね。「現場」ってなんやねんっていう問題もある。新宿ロフトも「現場」やし。まあ、所謂非日常の現場に行って音を鳴らす事が多いバンドだとは思うから、そういう中でいろんな出会いがあって、その出会いは裏切れないなという中で、せめて音楽ぐらいは誠実にやろうというのはあるかもしれない、人間がちゃらんぽらんやから(笑)。少しでも見た情景、寄り添い合った心が、音楽の中に投下されるといいなとは思ってるけどね。こねくりまわして帳尻合わせをするというようなことは、自分には向いてないと昔から思ってる。
── 被災地を訪れていろんな出会いがあったと思いますけど、その中で印象に残ってる出会いとかありますか?
中川:4月に一度入って、こないだ5月17〜19日に初めて被災地出前ライヴをやった。石巻のラ・ストラーダと湊小学校、女川総合体育館、南三陸の志津川高校と歌津中学。この5ヶ所のライヴは一生忘れられないやろうね。あまりに色々なことがあり過ぎて、どれかひとつをピックアップして喋れないね。被災地出前ライヴはこれからも続けるし、もう少ししてから、まとめてどこかで語らないとね。