『満月の夕』を聴いて涙が止まらなかった
── 地震の当日はどちらにいたんですか?
中川:(関西の)自宅にいたよ。
── 関西はそんなに揺れてないんですか?
中川:それが、同居者と「揺れ、長いなー」とか言ってて。地震どこやってんやろうなってテレビ付けたら東北で、これはやばいぞって直感的に思って。1時間後には名取の津波の光景がテレビに映し出されて…。あの1週間ぐらいは頭の中で現状を整理できるような感じじゃなかった。みんなそうやったと思う。被災地や原発事故の溢れる情報を前にして、気持ちだけナーバスになっていくんやね。
── でも、中川さんは震災後の早い段階でソロ・ヴァージョンの<満月の夕>をWEBに公開しましたよね。
中川:3月15日。今から考えたら震災から4日目。でも、あの時の感覚からすると、俺はまだ何もしてないなっていう感覚やったな。音楽の出番はもうちょっと後、って自分の中で決めてたところもあった。そんな中、YOU TUBEにアップされていた96年のテレビ番組出演時の動画<満月の夕>のURLがTwitterで流れてきて、そのコメント欄に被災した人の書き込みがあって。「<満月の夕>を聴いてやっと泣けました」って。自分が歌っている映像を見て、そういうコメントがいくつかあるのを見て、なんか涙が止まらなくなっちゃって。で、泣いたらスッキリした。「さあ、自分にやれることをドンドンやるぞ!」。<満月の夕>は阪神淡路大震災16年目の、この1月にソロで再録してて、今作にも入れる予定やったから制作途中段階なんやけどWEBに公開しようと思ったんよね。
── <満月の夕>をアップして再び制作に入って、4月・5月に被災地でライブをやって。
中川:3月末に“闇鍋音楽祭”があったから、まずはソウル・フラワー・ユニオンで五本のライヴがあった。石巻の上野と、毎日恋人のように電話で情報交換しながら(笑)。これもホント、忘れ難いツアーになったね。
── ライブをやって、お客さんの反応はどうでしたか?
中川:3月20日、大阪Shangri-Laの初日は(七尾)旅人くんがゲストで、音が出るまでは独特な緊張感があった。お客さんも含めて、今笑ったり踊ったりして良いのかなっていう感じの人までいるような空気感やったからね。
── 中川さん自身の心持ちは?
中川:いつも通り、SFUらしいライブをやることに徹する。選曲は悩んだけどね。リハを5日間大阪でやることになってたけど、家族がいるメンバーもいるから2日間にして、メンバーが大阪に集まってから選曲。どんどん選曲は変わっていった。リクオの<アイノウタ>、ヴァン・モリソンの<クレイジー・ラヴ>、カーティス・メイフィールドの<ピープル・ゲット・レディ>…。希望溢れるセットリストにしたいなという話になっていった。
── それこそ今後被災地での演奏だったりが控えていますし、もう311を抜きにしては語れないアルバムになってますね。
中川:今作の制作期間のことは、一生忘れないと思うよ。
音楽をやればええねん
── 被災地って基本的に音楽がないんです。ラジオは早くて、最初の頃は『アンパンマンのマーチ』とか元気が出るような歌を流したりしていて、僕らもテントを張って寝ている時にラジオを頼りにいたし、後から聞くと若い子らはラジオから流れる音楽で気持ちを保っていた人たちが多かったから。
中川:3月末、ARABAKIの延期が決まったすぐ後に、仙台の若いミュージシャンから、Twitterで@が飛んできたの。それで、フォローするからDMでやりとりしようっていうことになって、電話で話すことになった。「被災地に音楽がないんです。4月30日にイベントをやりたいんです」と。その辺の段階から、やっぱり音楽やな〜と思い始めたんやね。
── その思いをメンバーに話したのはどのぐらいのタイミングですか?
中川:とりあえず4月10日ぐらいの段階で、「“アースデイ東京2011”(2011年4月23日・24日)のあと、自分の車で被災地に行こうと思ってるけど一緒に行かへん?」って。奥野(真哉)とかっちゃん(高木克)がスケジュール空いてるって言うから、一緒に行く事にしたんよね。
── その中川さんたちのライブを見て、みなさん笑顔になってましたよね。
中川:でも、音楽って一方通行じゃないんよね。民謡をやったり、みんなが知ってる歌謡曲をやって大合唱になるとか手拍子になる瞬間って、たまたま触媒として自分がいるなというぐらいの感覚で。音楽は一緒に作るもので、むしろこっちのほうがパワーをもらっている瞬間のほうが多いしね。例えばこの間の南三陸志津川とか女川とか。
── 女川はすごかったですね。社交ダンスを始める人もいましたし。5ヶ所やった時に全部色は違ったんですけど。
中川:夕暮れ時で時間も良かったね。女川の避難所は高台の上にあって、その下は津波で壊滅状態になってる。家や家族を失った人もたくさんいて…。でも、ライブで踊る人、歌う人も沢山いたし、あの時ライヴ後に会話したおっちゃんのことは忘れられへんね。ずっと目に涙をためてライブを凝視してて、相当辛い思いをした人なんやろうなって思いながら俺は歌ってて。終わったら「ありがとう。ありがとう。音楽って本当にいいね。音楽って本当にいいね…」って言いながら、俺の手を握りしめたたまま号泣して泣き崩れてしまって…。辛かった…。音楽はいろんな力を持ってるよ。
── 僕自身も行って音楽を届けるところの歯車のひとつになれたことで、得たものはすごく大きかったです。5ヶ所やったけど全部違うじゃないですか。被災状況も違うし、客席にいる1人1人が状況が全員違うわけですよね。みんなそれぞれの悲しみを背負っている。家が流されてしまったけど街の復興のためにボランティアと一緒に泥出しをやってくれていた人が、長靴に作業服にヘルメットかぶってマスクつけたままライブに来ていて、その人がひさしぶりにお酒も入って音楽を聴いて、やっぱり解放されて、最初は楽しそうに手拍子をしていたんだけど、最終的には張りつめていた感情が出ちゃって。
中川:張りつめてる感情は、一度外に出したほうがいい。次に行くために。
── それのきっかけのひとつは、音楽で心が開かれていくというのは事実としてあるんだとすごく感じました。
中川:16年前に神戸で被災地出前ライヴをやり始めた時は手探りやったけど、何回かやっていく中で、何かええことをやろうとか、みんなの気持ちが2時間ぐらい癒されればそれでいいやとか、そういう説明的なこと全てが吹っ飛んで、寄り添うような気持ちでただ音楽をやればええねんって。泣く人がいたり、怒る人がいたり、笑う人がいたり、そういう場を作る。音楽の場って、単純に人と人とが触れ合うことになる。人と人とが触れ合い、そして喋るっていうことで、それだけでも、大きな解放の意味を持つときがある。
── 最後『男はつらいよのテーマ』を入れたのは? 被災地でもやりましたけど。
中川:年始のアコパルのツアー中にリクオと寅さんの話で盛り上がって。仕事はできないし、揉め事は起こすし、やっかいやねんけど、その人がいることで人と人とが繋がっていく。寅次郎のような存在。音楽がやるべきことって寅次郎やんなって話も含めて、あと、やっぱりリリー(浅丘ルリ子)やんな、とか言いながら。で、今一度、第一話から順に見始めて、毎日見てたさなかに311。4月に入ってまず<風来恋歌>を録って、その次に何か録ろうっていう時に、被災地のことばっかり考えてた中、ふと寅の世界が思い浮かんで。この映画は、70年代の頃は夏と正月の年二回公開やったわけやけど、夏公開回は寅が失恋して葛飾から西の方へ向かう。正月公開回は、春を前にして、北へ向かうという寸法。そこに写り込んでるのが、半漁半農の東北の尊厳溢れる姿やったりする。光景が自分の頭の中で繋がってね。俺の中では寅が行く北の漁村の風景と今回の被災地が繋がったんよね。
── 『街道筋の着地しないブルース』というタイトルは、寅さんみたいな部分もありますからね。
中川:毎度毎度、寅が最後に失恋して、1人で旅に出る。各地の、まさに地べたで逞しく生きる人々と、笑顔で触れ合い、いつもバックにあるのはあっぱれな日本晴れ。今作をそんな感じで聴いてもらえたら嬉しいね。
撮影:オオクマリョウ
ソウルフラワー震災基金
http://www.breast.co.jp/soulflower/sfu20110328.html
ピースボート
http://www.pb-kyuen.net/