昨年、下北沢シェルターで自主企画ライヴ『Waiting For My Men』を3ヶ月連続で敢行し、シェルターの店長からも「若くて粋が良く、今後ひとつのシーンを築けそうなバンドのひとつ」と太鼓判を押されたFAR FRANCE。デビュー・アルバムとなる『LOVE』は、その自主企画ライヴから厳選に厳選を重ねたベスト・トラック7曲(+エンハンスド映像1曲)が収められている。デビュー・アルバムがいきなりのライヴ・アルバムというのも規格外だが、実際のライヴ・アクトも同様に規格外そのもの。原始の叫びと呼ぶに相応しい鬼気迫るヴォーカルと無軌道な衝動そのままのハイ・テンションなプレイ、それらが生み出す得体の知れない闇雲なエナジーは観る者をただただ圧倒させる。そんなライヴでの熱気と焦燥感をパッケージした本作は、FAR FRANCEというバンドの本質を余すところなく伝える格好のアイテムだと言える。特筆すべきはそのユニークな楽曲の数々だ。猛々しい爆音と複雑極まりない展開の中に見え隠れするポップ・センスには普遍的な魅力が確かにある。この早熟にして濃厚なバンド、この先ひょっとしたらひょっとするかもしれない。(interview:椎名宗之)
ノイズ・ミュージックを宅録する早熟さ
──もともとはバンドではなく、畠山さんと英さんが宅録を繰り返していたことからすべてが始まったそうですね。
畠山健嗣(g):そうなんです。音楽を聴くのは好きだったんですけど、まずは自分達で録音してみたかったんですよ。それが中学2年の頃で。中学の初めにSONIC YOUTHにハマって、それからノイズの方向に行きまして。ノイズを入れたものをラジカセで録音してました。
──13歳でSONIC YOUTHとは早熟ですねぇ…。
畠山:中1の時に来日公演に行ったんですよ。
──同時代のJ-POPには興味がなかった?
英 真也(vo, g):僕は普通に、L'Arc~en~Cielとかを聴いてたんですけどね(笑)。
畠山:僕はBLANKEY JET CITYの『ガソリンの揺れかた』がきっかけでロック方面に行きました。
──『ガソリンの揺れかた』ということは、1997年だから…。
英:小4、小5くらいですね。
──末恐ろしい時代になったもんだ(笑)。
畠山:BLANKEY JET CITYはすでにマキシ・シングルで出していて、シングルは8センチのものだと思っていたので、8センチを探して無かった記憶があります。
──宅録時代から随分と時間が経ってからバンドを組んだんですよね。
畠山:2年くらい経って、高校に入ってからですね。部屋で楽器をデカい音で鳴らし始めて、隣の部屋のお婆ちゃんから「うるさいから止めてくれ」って言われたので(笑)、仕方なく練習スタジオに行くようになったんですよ。ドラムの高橋(高橋豚汁)が吹奏楽部に入っていて、ロックを聴くヤツじゃなかったんだけど、ひとまずドラムを叩けるから連れてこようと。それでスタジオに入って、そこで初めてカヴァーをやり始めたんです。クラムボンや赤痢なんかをやってましたね。聴くのもやるのも雑食なんですよ。
──オリジナル曲を作ろうとは?
英:最初は曲を作ろうとしてやってたわけじゃないんですよ。ただみんなで音を出したくて。
畠山:アンプをフルテンにして叫んでみたりとかね。
──ベースの松島さん(松島 昴)はメンバー募集で加入されたんですよね。
英:ウチのHPで募集をかけて、誰も来ないだろうと思っていたのに1人だけ来たんです。それが松島君だったんですよ。
──松島さんが加入された頃は、もうFAR FRANCEと名乗っていたんですか。
畠山:はい。彼が入ったのが2006年の夏だから、19の頃ですね。僕らが16くらいの時に、最初の3人ともう1人違うベースでFAR FRANCEという名前でやり出したんです。
英:学生が主催するようなイヴェントに先輩から誘われた時はカヴァーばかりで、オリジナルを作ろうと思ったのはその1年後くらいでしたね。国分寺のライヴハウスとかにも出たりしてましたけど、活動が本格化したのは松島君が入ってからなんです。
──現在、活動のベースとも言えるシェルターには、最初にデモ・テープを持って行ったんですか。
畠山:そうです。オーディション・ライヴを受けさせてもらって、夜の部に上がったんです。シェルターは54-71やfOULをよく観に行っていたし、凄く好きなライヴハウスだから出たかったんですよ。
──他にデモ・テープを送ったライヴハウスは?
畠山:251とアースダムですね。アースダムはまだオープンして半年くらいで、店長がKIRIHITOの早川さん(早川俊介)だったから送ってみようと。もともとKIRIHITOが好きだったんですよね。
──周囲のライヴの反応はどうだったんですか。
畠山:早川さんは比較的面白がってくれましたね。西村さん(西村仁志、シェルター店長)は企画をやった時に「前に比べたら音楽が固まって良くなってきたね、今後も頑張って」と。